福島と宮城の県堺近くに
新地町という街がある
小生は、そこで東日本大震災に被災した
仕事で立ち寄っただけの町に過ぎないが
被災後、少し間津波被害者の救出・遺体の収容の補助活動を行なった
不敬な話だが
小生はいい経験になった
ある程度交通機関が『復旧』して、道路状況などが判明してから
自転車で仙台まで移動し、自宅に戻ってきた
親族・親類は安否を心配していたことは言うまでもないが
小生は、仕事を放置して
抗アレルギー食品を被災地に頒布できるような活動を個人的に始めた
被災者の避難場所で、
配給物資がアレルギーの問題で食べられない子女を見たからである
優先順位として抗アレルギー食品の頒布が立ち遅れるのは仕方がないことだろう
行政や政治を責めるべきものだと思わなかった
ただ、その場に居合わせた立場として出来ること・知り得た立場であることを踏まえて
30万ほどの貯金を取り崩して、被災地向けに準備した
交通手段が麻痺している現状を鑑みて、半分以上を自力で輸送することにした
そのころには、ある程度は交通網も回復していたから乗用車を利用できたのだが・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
被災した当時のことを今思い出すに
ある被災者の言葉を思い出す
少しの間、小生が貰った被災者の言葉を書き連ねたい
以下追記で