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国政時代の石原伸太郎 |
今回は、国政時代の氏の言動を見て、氏の人間性と政治家としての資質を考えたい。
<反逆のカリスマ>
初当選68年時、彼はこう語っている
「現代人は文明社会に飼い馴らされています。〜〜僕は他者との関係で目障りなものは自分の手で取り除く。目障りなものを我慢することは出来ません。〜〜嫌悪の感情こそ生産的だ。僕は政治を嫌悪する。だから政治を選び、自民党に入った」(読売新聞インタビュー)
政治家として気に食わないものを排斥するという政治姿勢はより強権力をとろうとする意思になる。こんな感情を政策に反映されたら、彼の独裁政治になりかねないし、彼に迎合する人間しか側近にはなれないこともいうまでも無いだろ。諌言すれば目障りとして処分されるのだから
<石原慎太郎の踏み台になった佐藤>
>←ノーベル平和賞受賞者佐藤栄作まず、国政で初めて石原氏の不義理、粗暴さの犠牲になるのは時の総理である佐藤栄作である.
参院初当選の68年、石原は佐藤の強力な援助で選挙事務所から資金援助、党内推薦、立候補地まで用意してもらい当選する。この経緯からして、当時の最大派閥である「佐藤派」に入ると予測されたのだが、彼は派閥を拒否するだけではなく、70年の自民党総裁選で佐藤に総裁として「資質を問う」として公開質問状を送り付けるなど、恩を仇で返すようなことを堂々を慣行している。
これは佐藤個人だけの話ではなく佐藤派の有力議員のある人物が68年の出馬時に佐藤と一緒に骨を折ったのだが、石原氏はその有力議員の対立候補を応援する始末である。ついでに言うと、石原氏が初当選した時、影で立候補を支援した佐藤派へのお礼の一つもなく、しばしば当時の最大派閥を批判するなどのいわゆる義理に欠く行為を行っている。このような部分では彼の不義理な部分が露呈しているせいもあって、自民党内では石原氏はあまりに人気がないと言われている。政治家が義理人情が必須だといわないが、一方で個人としての礼節は当然問われるべきであることは言うまでもないだろう。「この程度の不義理は大義の前では小事である」と抗弁することも想定されるが、参考程度にとどめておいてほしい。
<第二の犠牲者中川一朗>

←故中川一郎氏
佐藤だけが犠牲者ではない。一番の被害者はおそらく現自民党三役で政務調査会長の中川昭一氏の父親である中川一朗氏であろう。
石原氏が初当選した当初タカ派の急先鋒だった中川氏は「反田中」と頭目として、渡辺美智男と一緒に「青嵐会」を結成する。これに石原氏も幹事長として名を連ねるのだが、青嵐会は結成時、ものものしく「血判状」までつくって世間を騒がせるのだが、結局は山崎拓、野田毅、綿貫などが脱退してゆき、日中国交正常化が為ると自然消滅のように会そのものが消え去ってしまう。ちなみに、石原は著作「国家なる幻影」でも痛烈に中国を批判し、田中総理の中国接近政策を批判したのだが、最終的に派、外交委員会では日中平和友好条約締結賛成側への鞍替えしているのである。ここでまず青嵐会と中川氏への裏切りが一つ。
タカ派としての石原氏の求心力というのは、自民党内では高いとは言えない。その後、石原氏が様々な会派を創設しようとしても人がついてゆかないというのは、党内での石原氏のダーティさと信用の無さに起因するかもしれない。
←現自民党政務調査会長の中川昭一氏3000万も目減りした父親の遺産とその後鈴木宗男氏と北海道5区で中川派同志での骨肉の争いを演じることになる
その後、青嵐会の残滓を中川一朗氏が集め新会派「中川派」が生まれるが83年に急逝し、派閥代表に石原氏が就任しいわゆる「石原派」が誕生した。しかし、石原派は一年維持できず「福田派」に吸収され、ここに「中川派」と青嵐会の残滓も消えてしまう。補足しておくが、中川派継承後、1億1000万円の中川派の政治資金の管理をめぐり、鈴木宗男と石原は対立する。これが訴訟沙汰に也、減額されて8000万円息子の昭一氏に返還されることになる。ここにおいて鈴木宗男氏の話になるが、彼は一朗氏に非常に寵愛された一方、昭一氏とは選挙戦で骨肉の争いを演じることになり、ここでもメディアで批判を受けることになる。ウィキペディアより「鈴木宗男」
<意味不明な石原行動>
石原氏は一度国政を離れようとする75年に都知事選で「美濃部亮吉氏」と争い敗退し、すぐさま衆院で国政に再出馬する。
ここで今度は「福田派」の世話になる。福田赳夫氏は反田中時代から関連もあり、福田氏も人気取りで石原氏を環境大臣に据える。
←陳情団に謝罪する石原しかし、ここで失態を演じるのである。ことの経緯は以下の通りだ
水俣病陳情団が面会に訪れる一方で彼は政務を拒否し、高級テニスクラブでテニスをしていたことがマスコミにスクープされ、批判されると環境庁記者クラブで
逆上したのか、突如
「ここから記事が『赤旗』に流れている」
と言い放ち、記者クラブも怒り出し、この対立問題で内閣改造を契機に罷免される。(この問題は大きな党内でのマスコミ問題となったが石原氏はまったく反省させしていない)
その後、「黎明の会」や新党構想を幾度がブチ上げるが誰もついてこない、イヤ同志が集まらない有り様である。
87年に竹下内閣で運輸大臣に就任する。当時最大派閥の竹下派から閣僚要請に「反逆のカリスマ」もポイっとポストに嵌まったことは当時、永田町の「福田派」でも”変節漢”という評判で餅きりになったという証言もある。
また運輸大臣時代にも失言をしてくれる。有名なのではリニア新幹線の実験を宮崎県で行っていたことを評して(日向市7km区間)
といったり(その後、山梨のリニア実験路線は切り替わる)「ブタ箱とトリ小屋の間を走っている」
長崎新幹線について
「長崎新幹線はまったく荒唐無稽」
などと根源的に彼に存在する「地方蔑視」の発言をしている。
そもそもリニアは実験であり実務運用局面ではないので、むしろ地方で行うのが道理であるし、どこだったら適当だったのだろうか?と疑問に思えてならない。それに長崎新幹線は確かに、疑問符はつくし発言は一定の理解はできる。しかし、企画立案まで当時の与党草案でも当局の熱望でもあった構想を「荒唐無稽」と切り捨てるのはあまりにも乱暴というしかない。都知事時代にもこのような地方蔑視の言動を行うのだが、これは東京都民の認識も同じものがあるとも分析している。ここらについては機会を設けて、地方と都心の相互依存共存関係という方向性で言及することにしたい。(東京都民に告ぐ:東京だけで日本の利益は生まれていない。地方の工場なしに東京の繁栄はありえない。)
89年にとうとう総裁選に出馬する。この出馬では「福田派」との対立もあっていきなり派閥を離脱して総裁選に出馬するのだが、
海部俊樹:279票 林義郎:120票 石原慎太郎:48票
(総票数451)
ここでも自民党内の人気のなさが露呈している。(総裁選は議員だけではなく地方党員票もあるので、議員内だけの評判の悪さだけではない)
党内での評価の低さを示すのに、彼の党内役職も上げれるのだが、結局は、外務調査委員会以外の党のポストは与えられず、95年に辞職する。
←オウム医師で裕次郎の執刀医の林郁夫氏さて、この辞職に関しても多少含みを残している。この辞職は任期途中の辞職である。この同時期にオウムの地下鉄サリン事件がおきており、このオウムの宗教法人の取得の背景に石原氏の影があることがよく言われている。参考資料→石原氏辞職とオウムの背後
弟の裕次郎氏の関係では
1981年、日本外洋帆走協会主催の小笠原ヨットレースに参加中、弟・裕次郎が緊急入院したとの報を聞き、海上自衛隊の飛行艇を父島まで呼び寄せて帰京した。本人は「たまたま来ていた飛行艇に便乗させてもらった」と言い訳したが、防衛庁長官は、石原のために岩国基地から飛ばしたことを認めている、などのお話もある。
ただ慎太郎氏は「霊友会」「オウム」「統一教会」「戸塚ヨットスクール」「日本観音教団」と新興宗教の影がかなりチラつくのだが、これも偶然なのだろうか?
国際勝共連合は、統一教会(世界基督教統一神霊協会)の政治部門でこの組織が石原氏の特別秘書である浜渦武生との絡みで選挙活動していたり、産経新聞の仲立ちで霊友会とのパイプを持つことになったり、夫人が「日本観音教団」の幹部だったりする
<田中角栄に関わる石原のヘタレ>
←石原の目の仇の田中角栄地方出身で学歴の低い豪腕で親中派の田中角栄氏を石原にとっては天敵だったことは彼の国政時代の言動でも大よそ推測はつく。地方蔑視、学歴アイデンティティ、嫌中の石原からすれば田中は自民党の唾棄するべき「目障り」なものである。しかし、政治家としてのスケールの違いか、石原は日中外交問題でも結局は、敗残を帰すわけである。ロッキード事件に関する石原氏の言動でも根拠のない(希薄出はない、”ない”)論説をしている。
石原氏は巷の我々と同じくして陰謀史観が好きなの様で、メデイアでしばし、それを見せている。いくつか事例を出すと
<ロッキード事件>
田中角栄がウラニウム購入で日本独自のルート開拓を目論んだこのに対するアメリカの制裁行動
<グリーンピース>
英米の環境主義者は捕鯨委員会などでも暗躍している通り、政治的な背景が強く、ユダアヤ資本、オイルメジャーが関与している
<大韓航空機事件>
アメリカの要請でソビエトの国防体制を探るために同社がスパイ飛行を行ったから撃墜された
<クリントン大統領について>
民主党そのものを含めてユダヤ資本とKKKなどの差別主義者が背後で支援している
個人として陰謀論を指摘するのは自由だが、とても検証作業を行った上での見解とも思えない。政治家として発言は慎重に行われなければならないのは外交問題でも一色触発になりかねない問題をはらむことも言うまでもない。冷静さと正確さの問題で石原氏の発言が問題を孕んでいることは指摘するまでもない。
<石原氏の根本的人格要素>
個人として石原氏のポリシーを端的に分析すると、地方蔑視、女性蔑視、外国文化蔑視、外国人蔑視、共産主義蔑視、という排斥ありきの分析が可能になる。このことについては次回に譲ることにするが、彼はそのポリシーを常に個人としてだけではなく国政でも都政でも発揮する。「政治の私物化」という意味では不当性があるとは言いきれないが、自分のポリシーを発揮するために他者を排斥する政治権力を行使するのは、「政治の私物化」ということになるだろう。
歴史家として、二人の独裁者の言葉を引用したい
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ルイ14世「朕が国家なり」・・・康熙帝:「朕は国家の下僕なり」
さて、石原氏はルイ14世、それとも康熙帝のどちらだろうか?
補足:「朕は国家の下僕」と発言したことではプロイセンのフリードリッヒ2世が有名ですが、康熙帝は彼よりも若干早く君主としてこの言動をしている。それに中国皇帝という意味では石原氏への皮肉の意味もあるので、康熙帝を使わせてもらった)
次回予告
次回は、私人石原慎太郎ヲ分析し、政治家ではなくどれだけ彼が矛盾を抱えている不誠実な人物か?というお話をしてみたい。テーマは「個人の倫理、反逆」という方向性になるとは思う
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