教育基本計画―学力向上へ大胆な投資を 様々な政策が総花的に盛られているが、肝心のことが書かれていない。
教育基本法の改正を受けて、初めての政府の教育振興基本計画が決まった。しかし、焦点となっていた教員数や教育予算などの数値目標は軒並み削除された。
10年先のあるべき姿を見据えて今後5年の施策に取り組む。それが基本計画のねらいだ。
文部科学相の諮問機関である中央教育審議会の答申に、数値目標はなかった。これに対し、教育の底上げには数値目標が必要だ、との批判が教育現場だけでなく、与党からも上がった。
文科省は急きょ、数値目標を基本計画に書き足した。教育予算の対国内総生産(GDP)比を、現在の3.5%から経済協力開発機構(OECD)加盟国平均の5%に引き上げる。教職員を2万5千人増やす――。
本ブログの記事(5年で教員2万5000人増=教育振興基本計画素案−文科省 )を受けて朝日新聞の社説を紹介する。
政治立案において具体的な数値目標を設けるのは当然のことだと言われるものだが一方、行政行動の評価は数値化できないものが多いのである。だからこそ、具体的な数値が出せないという言い分は理解できなくもないが、目標として数値化できる指標に関しては、努力目標としての責任を明確化するためには必要だろう。
ブログ記事でも説明しているが、過去の日本の教育システムは優れていた側面が結果的には理解できる。低予算で高度な教育的効果というべきだと思う。
「GDP比率5%」という数字に執着する必要性はないが、公教育と私教育と総合的に教育を論じる必要性が国家政策としては必要だと思える。
だが、何せ付け焼き刃である。なぜ、5%なのか、2万5千人なのか。この投資でどんな成果が得られるのか。説得力に乏しかった。ただでさえ、歳出削減を求められる時代に、ただ金をよこせ、人を増やせだけではさすがに通らなかった。
数値として、25000人という数字の具体的な説明には至れない問題があるのは仕方ないだろう。
同時に少子化という趨勢の顕著な日本で5%という目標の妥当性は諸外国ほど説得力を持たないとも言える。
しかし、今回の文科省の要求の仕方が稚拙だったからといって、大胆な教育投資が必要でないわけではない。
そもそも今回の基本計画から根本的に抜け落ちているのは、日本の教育の問題点をどう総括し、そのための処方箋(せん)をどのように描いていくかである。解決方法をきちんと打ち出していけば、教育予算をどのくらい増やさなければならないかもはっきりする。
真なる問題提起だと思う。日本の教育の問題点をどう総括し、どういう人材を育成するのか?
未だに明確な回答はない。むしろ、諸外国でも難しい問題として恒常的に議論されている話であろう。
本質的な解決としては、その問題を考え続けることであり、解答そのものは価値がないものかもしれない。つまり、問題を問い続けることが至上なる教育姿勢だと思う。
例えば、日本の教育が抱える大きな問題は学力低下だ。特に国際的な調査で深刻さが浮き彫りになっているのは、考える力の不足と、できる子とできない子の二極化である。
この解決に必要なのは、子ども一人ひとりの状況に合わせて、きめ細かな指導をすることだろう。それには子どもたちと日々向き合う教師の量を増やし、質を高めていくしかない。
「学力」論争はメディアでは常に数値上の教育評価が主体である。これに不満を持つのだが、数値化という客観性に優れた指標を否定しきれない。
指摘にある二極化問題は、いつの時代も存在している話である。問題はその二極の格差の幅の問題だろう。指導要領という領分を遥かに超えた受験などの批判は公教育では簡単にはできない。 その解決策は愚昧な私の考え及ぶ範囲ではないが、
「できる生徒ができない生徒を教える」という手法が二極化問題の解決として不可能ではないと思う。
できる生徒の能力開発の機会を奪いかねない手法という指摘はあるが、
”社会人になってからも業務上で人に【教える能力】”は業務として付きまとうものであり重要な社会経験の準備になる。 私は、日本の民生力はこの【教える能力】に支えられている側面が強いと思う。
つまり、技
術的な継承が日本ではスムーズに行われたのは、【教える能力】がある人間が実は無自覚にも多く居たという見方である。 今はかつてない教師受難の時代である。一部のダメ教師の存在をきっかけに、教員免許更新制が導入された。いじめや不登校に加え、学校に理不尽な要求をするモンスターペアレントも増えた。そうしたことに嫌気が差して、教師の志望者が減っている。
そんな中で、人材を集め、質の高い教師に育てるには、教師の待遇を良くし、養成方法を工夫する必要がある。
受難という評価は評価しない。そして”モンスター”という人間は教師に限らず、親にもいる。
”教師になろう”の問題もあるが、”教師を続けられる”ことが論題になる状況ではないだろうか? 指摘を否定するつもりはないが、
学校という世界だけの教育を論点にした教育論をメディアは脱することができないのだろうか? 私から言えば、
メディアは国民に努力を強いる、責任を強いる表現、発言をしない。大衆迎合主義を当然としているフシがある。だから、公教育という一番責任転嫁しやすい部分を糾弾して済ませようとする。そして、このような報道が逆に、”国民の責任放棄のような感覚”を醸成するように思える。
公立学校への不信が指摘されて久しい。東京都杉並区の公立中の夜間塾などの対症療法ばかりが注目されるのも、不信の裏返しである。
財政が厳しいのはいつの世も変わらない。政府は教育の重要性を言葉で語るばかりでなく、教育投資を着実に増やしていってもらいたい。
私は和田中学校の事例以前から、夜間学校施設を流用した教育を知っている。メディアはおそらく和田中が始めてだと思っているだろうが、それも間違いである。
関係者に迷惑がかかるので公開していないが、地域の住民なら自由に参加できる青空学校である。欧州などではしばしば見られる社会人大学の部類もやっている。
メディアが注目するのは、和田中が情報公開しているからであるが、前例のように施設的な限界、世間体、協力者の善意を鑑みて公開できない夜間学校は多いのである。アングラという批判もあろうが、珍しい事例ではない。
問題は、
政府の提示する教育指針と国民の教育保身の差異の問題もある。 法的には、教育権は国家、保護者の二元論である。つまり、国家、保護者という教育戦略の立案者が居る事が可能である。 私見からすれば、
投資という視座よりもまずは、保護者の教育意識の改善を優先するべきだと思う。
具体的には
・学校教育に対する保護者の参加規定を設ける ・学校外の教育問題に関する教師の責任をある程度は免責する ・地域的活動として教育手法を自治体毎で企画する ・保護者団体(PTA)などの一部憲法上の義務解釈の延長 |
現代の保護者は”放任という名の放置”を自由と思う人が多く感じる、一方”籠の鳥”、”深窓の姫君”のように保護者の願望の実現手段化していたりする。
(保護者の二極化と子供の成績の二極化は連動するかもしれないが・・・)
国民一人一人が子供の保護者というマインドが必要だと思う。(”児童公共財”観)
そう考えるとある意味では、国家、地域的に児童を集めて公教育を行ってきた薩摩藩の
郷中教育、
スパルタの教育のような教育意識の必要性もあるだろう。(前時代的な教育ではあるが)
「人は一人では生きてゆけない。」 この言葉の意味を最近は感じない生き方が可能になっている。
「face to face」で物を確保する必要性がなくなってきているせいなのかもしれない。
教育の本質は、学力ではなく、人間としてのコミュニケーション力の育成だと思う。 知識は付帯的にコミュニケーションの過程で取捨選択できるようになる。
以前、美術教師の紙面投稿にこのようなものがあった。
刃物を使う授業がなくなり、刃物の脅威を実感することがなくなった。
生徒自信が刃物の危険性を自分で学習する機会であったはずの授業が「安全性の問題」で喜ばれなくなったのである。
そのような経緯から、刃物の怖さ、刃物の扱い方を理解しないまま、仮想現実世界の刃物の理解で終わっているから危険ではないだろうか?
一般的に、アニメやゲームの危険物の表現には問題があるという意見を否定できないが、その刃物の正しい(=リアルな)危険性を理解する機会を奪っている保護者にも問題があるのではないだろうか?
基本的にはこの投稿に首肯してしまう。管理責任から危険性を排斥して、”危険性を感知できない子供が多くなっている”という視点も理解できる。
現代社会の教育は、学習内容の取捨選択さえもできない生徒を作っている。保護者己の都合で子供の選択肢を奪っているのではないだろうか? メディアでは常に政治という意味では「三権」が槍玉にされるが、国民主権である我々の責任もある。そして、子供一人当たりに関われる時間は圧倒的に保護者が長いし、地域社会も長い。
紙面を否定するつもりはないが、問題提起は国民にこそするべきではないだろうか?
このような報道姿勢では、学校以外の教育現場の惨状の解決にならない。
学校しか居場所のない生徒を作りたい・・・・そんな教育を目指すつもりなのだろうか?