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ゆとり教育の責任と”ゆとり教育世代” |
”ゆとり世代”という批判がある。
ゆとり教育が実施された時期の生徒を総じて、「ゆとり」と総括して蔑視する用語になっている。
ゆとり以前の世代は、競争社会の疲弊と学歴偏重社会の否定から、新しい学習目標として「生きる力」を課題として「ゆとり教育」を企画した。
ゆとり以前の世代が有権者として、ゆとり以前の教育制度の見直し論を行い、ゆとり以前の世代は、ゆとり以前の教育を批判し、新しい教育姿勢に賛同したはずである。
賛同しないまでも、ゆとり以前の教育を否定したはず。
しかし、今、ゆとり以前に戻そうしているわけである。ある意味では、ゆとり以前の世代の判断が間違っていたことを認めることになるだろう。(認めているとは思えないが)
しかし、現実ではどうなのだろうか?
ゆとり教育の結果で「ゆとり世代」という蔑視するような世代を作り出した責任が当人にありながらも、それを忘れて批判しているのである。
自分が作り出した結果を自分で否定することもなく、出来上がったものを否定する。建設的な意見になりえるだろうか?
一方、
”ゆとり教育”の課題である「生きる力」はどのように身につくのか?
その課題を業界は突き詰めていたのだろうか?突き詰める時間があったのだろうか?
・時間的制約を強いられた学校教育
・時間的余裕を持て余した家庭教育
この二者を、「生きる力」の教育・個体別教育の視点で分析したい。
「生きる力」とは何か?という問題の回答は愚昧な私にはできない。
前回の教育問題の記事でも指摘しているが、学力の定義も困難だが教育のメーンは人間育成であると思う。
そして人間育成のメーンは「コミュニケーションスキルの育成」だと思う。
♪人は一人では生きてゆけないものだから
とは中村雅俊の「ふれあい」の歌詞だが、これは紛れもない事実だと思う。
さて、「生きる力」=コミュニケーションスキルと規定して分析したい。
そして、「生きる力」は{教わるもの}ではなく”感じてとって盗む”ものであるという意味の教育と指摘しておきたい。
つまり、当人の学習能力の問題であるということだ。
・・時間的制約を強いられた学校教育における「生きる力」・・
まずは、学校教育の時間的制約の解除を主張したい。
根本的に、コミュニケーションスキルは学校で育成するべきものとは言えない。学校という方法に拠らずともコミュニケーション能力はつくものだろう。
しかし、学校という集団生活で身に着けるスキルは社会的な有意性がある。
授業、部活などの社会的行動での身の処し方を経験を通じて理解することは重要だろう。
しかし、ゆとり教育では、その時間が制約されることになった。 問題なのは、学校内で行われる自律的学習活動の制約が行われた部分だろう。
「学校内で行われる自律的学習活動」とは部活動、チーム授業などの自律的な行動を主体とした活動である。
授業内容では実験、観察という自活的な授業が制限され、宿題さえ制限化に置かれた。
部活動では、土日休業の原則から時間数も絶対的に時間数が減っているのである。
長い時間をダラダラ過ごす無駄の可能性を考えると時間だけの論点では充分ではないだろうが、時間が解決する障害があることも事実だろう。
有限な時間の用途の選択は生徒自身が行うべきだろうが、コミュニケーション能力の必要性の伴わない時間の過ごし方も多くなってきた現代では、コミュニケーション問題は大きい。
・・時間的余裕を持て余した家庭教育における「生きる力」・・
コミュニケーション能力は、人文科学的に言われる部分では、幼少期に基礎が構築されるものらしい。
従って、家庭教育の責任の度合いは高い問題だろう。
ゆとり教育によって時間的余裕のできた家庭が子供にしたことは何か?と言えば「塾に行かせることである。」
数字的に塾の入学率の向上は顕著である。習い事をしていない子供はいないとまで言える統計もある。
新しいことを学習させることは教育責任者として意味あることだと思う。「生きる力」という意味でも新しい世界との接触は有意だろう。
しかし、それらの教育施設は営利である以上は、生徒と保護者は上位者であり「客」である。
敬うべき相手なのである。学校教育でも生徒は「敬うべき相手」とは言えない。営利ではないから教育目的に対して責任を持てばいい学校と、塾では話が違うだろう。
私塾などで子供は「お客」として対応されることに慣れて、コミュニケーションとして”上位者”として振舞うことを覚える。 そして世間に存在する傲慢な間違った”上位者”をメディアを通じて理解し、演じてしまう。自演してしまううちに、錯覚してしまうのである。
家庭環境における親子の上下関係もそうである。上下関係のない親子がNGではない。お互いに尊敬しあえるような親子関係であれば対等であろうと問題ないと思う。
しかし、子供は動物的な生き物であるが故、上下関係という簡単な人間関係で図ることもある。
親子関係のフラットさが社会には通じないことを親が教えるならば、まだ憂慮は少ないが、それを教える親ばかりではない。(私はそれを親として教えることなく、礼儀を身に着けて当人が社会マナーを経験して理解してもらいたいと思う。)
保護者の時間的制約の問題も家庭教育における「生きる力」の問題を提示するだろう。しかし、「背中」で黙して語らないでも学ぶ可能性を考えると、どのような方法論で家庭教育で「生きる力」を教えることができるだろうか?
私見だが、家庭教育で「生きる力」を学ぶために方法論として二つ提案したい。
・一日一度は食卓を家族で同じくすること
・家族でも挨拶をかかさないこと
この二つだけでもかなり改善すると思う。そしてこれだけは必ず履行してほしいのが
近所付き合い、地域組合活動、もしくは、積極的な親戚付き合い
である。家庭教育において陥ることが多い、視野狭窄を解決するには違う家庭を見る機会が必要なのである。
そして、可能ならペットを飼って欲しい。手間がかかる一方、家庭において役割を持てるペットとしてイヌ、ニトワリなどを推薦しておきたい。
続きはそのうち・・・・・・
ゆとり教育が実施された時期の生徒を総じて、「ゆとり」と総括して蔑視する用語になっている。
ゆとり以前の世代は、競争社会の疲弊と学歴偏重社会の否定から、新しい学習目標として「生きる力」を課題として「ゆとり教育」を企画した。
ゆとり以前の世代が有権者として、ゆとり以前の教育制度の見直し論を行い、ゆとり以前の世代は、ゆとり以前の教育を批判し、新しい教育姿勢に賛同したはずである。
賛同しないまでも、ゆとり以前の教育を否定したはず。
しかし、今、ゆとり以前に戻そうしているわけである。ある意味では、ゆとり以前の世代の判断が間違っていたことを認めることになるだろう。(認めているとは思えないが)
”ゆとり教育”の責任を抱えるのは{ゆとり以前世代}であるはずだ。
しかし、現実ではどうなのだろうか?
ゆとり教育の結果で「ゆとり世代」という蔑視するような世代を作り出した責任が当人にありながらも、それを忘れて批判しているのである。
自分が作り出した結果を自分で否定することもなく、出来上がったものを否定する。建設的な意見になりえるだろうか?
一方、
”ゆとり教育”の課題である「生きる力」はどのように身につくのか?
その課題を業界は突き詰めていたのだろうか?突き詰める時間があったのだろうか?
・時間的制約を強いられた学校教育
・時間的余裕を持て余した家庭教育
この二者を、「生きる力」の教育・個体別教育の視点で分析したい。
「生きる力」とは何か?という問題の回答は愚昧な私にはできない。
前回の教育問題の記事でも指摘しているが、学力の定義も困難だが教育のメーンは人間育成であると思う。
そして人間育成のメーンは「コミュニケーションスキルの育成」だと思う。
♪人は一人では生きてゆけないものだから
とは中村雅俊の「ふれあい」の歌詞だが、これは紛れもない事実だと思う。
さて、「生きる力」=コミュニケーションスキルと規定して分析したい。
そして、「生きる力」は{教わるもの}ではなく”感じてとって盗む”ものであるという意味の教育と指摘しておきたい。
つまり、当人の学習能力の問題であるということだ。
・・時間的制約を強いられた学校教育における「生きる力」・・
まずは、学校教育の時間的制約の解除を主張したい。
根本的に、コミュニケーションスキルは学校で育成するべきものとは言えない。学校という方法に拠らずともコミュニケーション能力はつくものだろう。
しかし、学校という集団生活で身に着けるスキルは社会的な有意性がある。
授業、部活などの社会的行動での身の処し方を経験を通じて理解することは重要だろう。
しかし、ゆとり教育では、その時間が制約されることになった。 問題なのは、学校内で行われる自律的学習活動の制約が行われた部分だろう。
「学校内で行われる自律的学習活動」とは部活動、チーム授業などの自律的な行動を主体とした活動である。
授業内容では実験、観察という自活的な授業が制限され、宿題さえ制限化に置かれた。
部活動では、土日休業の原則から時間数も絶対的に時間数が減っているのである。
長い時間をダラダラ過ごす無駄の可能性を考えると時間だけの論点では充分ではないだろうが、時間が解決する障害があることも事実だろう。
有限な時間の用途の選択は生徒自身が行うべきだろうが、コミュニケーション能力の必要性の伴わない時間の過ごし方も多くなってきた現代では、コミュニケーション問題は大きい。
・・時間的余裕を持て余した家庭教育における「生きる力」・・
コミュニケーション能力は、人文科学的に言われる部分では、幼少期に基礎が構築されるものらしい。
従って、家庭教育の責任の度合いは高い問題だろう。
ゆとり教育によって時間的余裕のできた家庭が子供にしたことは何か?と言えば「塾に行かせることである。」
数字的に塾の入学率の向上は顕著である。習い事をしていない子供はいないとまで言える統計もある。
新しいことを学習させることは教育責任者として意味あることだと思う。「生きる力」という意味でも新しい世界との接触は有意だろう。
しかし、それらの教育施設は営利である以上は、生徒と保護者は上位者であり「客」である。
敬うべき相手なのである。学校教育でも生徒は「敬うべき相手」とは言えない。営利ではないから教育目的に対して責任を持てばいい学校と、塾では話が違うだろう。
私塾などで子供は「お客」として対応されることに慣れて、コミュニケーションとして”上位者”として振舞うことを覚える。 そして世間に存在する傲慢な間違った”上位者”をメディアを通じて理解し、演じてしまう。自演してしまううちに、錯覚してしまうのである。
家庭環境における親子の上下関係もそうである。上下関係のない親子がNGではない。お互いに尊敬しあえるような親子関係であれば対等であろうと問題ないと思う。
しかし、子供は動物的な生き物であるが故、上下関係という簡単な人間関係で図ることもある。
親子関係のフラットさが社会には通じないことを親が教えるならば、まだ憂慮は少ないが、それを教える親ばかりではない。(私はそれを親として教えることなく、礼儀を身に着けて当人が社会マナーを経験して理解してもらいたいと思う。)
保護者の時間的制約の問題も家庭教育における「生きる力」の問題を提示するだろう。しかし、「背中」で黙して語らないでも学ぶ可能性を考えると、どのような方法論で家庭教育で「生きる力」を教えることができるだろうか?
私見だが、家庭教育で「生きる力」を学ぶために方法論として二つ提案したい。
・一日一度は食卓を家族で同じくすること
・家族でも挨拶をかかさないこと
この二つだけでもかなり改善すると思う。そしてこれだけは必ず履行してほしいのが
近所付き合い、地域組合活動、もしくは、積極的な親戚付き合い
である。家庭教育において陥ることが多い、視野狭窄を解決するには違う家庭を見る機会が必要なのである。
そして、可能ならペットを飼って欲しい。手間がかかる一方、家庭において役割を持てるペットとしてイヌ、ニトワリなどを推薦しておきたい。
続きはそのうち・・・・・・
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