さて、今回もらったTBは非常に興味深いものであるが、さらに興味深いのは、その展開方法である。
なにせ、このサイトはコピー&ペーストができないのだ。http://amr-i-t.com/2008/07/s.htmlちなみに、
私の知っているID説、創造論のサイトも同じだWまず、
この人は議論する能力、気概がないという可能性が示唆できる。サイトの特異性であり、当人の責任の射程ではないが、事実として議論する気概がないのも
当人にとっては「人間性だろう」
つまり、無責任も「人間性」になりえるのだ。
実は、当人は理解していないのだが、「人間性」という可変的で勝手都合の言葉は
いくらでも悪用できるのだ。
例えば、私のこのブログの人間性を尊重できないなら
このブログの行為は、「人間性のある行為」とは認証できないのは言うまでもない。
そして、当然のことながら、当人が「人間性」と思うことが
人間性として絶対性があるわけでもないのだ。
犯罪者には犯罪者の人間性、私には私の人間性があるのであり、
私がなにをもって、どう考えようと「人間性」として処断されることになるだろう。
厳密に人間性など規定できるものではないことは当人も認めるだろう。
そもそも、当人の「人間性」というのものは、可変的であり、多くの人間性が介在するのであって、それを棄却できるはずがないのだ。
己という人間性の尊重なくば、他者との会話も理解もできないのであり、そもそも、このサイトの管理人と私の間での人間性の棄却は前提になるものでもないし、それが論点にならないだろう。
そして何よりも重要なのは、その「人間性」という言葉の悪用である。
まず、ヒューマニズムという言葉の射程は哲学を収まるものではない。その用語を使用した人の意図で射程は決まる。
つまり、ヒューマニズムという言葉の概念的取り扱いも可変的であり、硬直的ではないのだ。それも「人間性」であるし、
逆に、ヒューマニズムという言葉の射程を哲学の射程に限定する人間も存在しえるのであり、それも「人間性」たりえるのだ。
もっとも、簡単にいえば、このサイトやそのサイトの支持者は
己の「人間性」の擁護のために
「人間性」という言葉を適宜に解釈することによって自分の行動をすべて正当化させようとするのだろう。
これは、ID説の後追い悪魔の証明と同じく、規定できない用語を確証しえない陰謀論と同じく、後だしジャンケンでできる詐欺的論法が可能なのだから、怖い。
そして、もっとも致命的なのは、どうして違うの?
というプレゼンができないことであろう。
もっとも、しないことも、やらないことも「人間性」という言葉で肯定化できるだろう人間には、無意味かもしれない。
彼らにあるのは、自分を律するものへの束縛間とそれからの開放しかないのだ
自由を求める人間が、その自由を制約する存在を疎ましく思うように
都合悪いものを自分の価値判断で放棄しようという我侭な人間性の自由
を叫んでいるに過ぎないだろう。
つまり、野蛮人による野蛮人のための束縛のない世界なのだ。
そこには、秩序は、勝手気まま、俺がルールという世界であり、優勝劣敗という秩序もないだろう。
もっとも、言論逃避、現実逃避するだろう彼らは、
狭い世界でオナニーするのが精一杯だろう。
その理由は簡単だ。
困ったことに、彼らの我侭を追随しない理性が不思議に存在しているように観測されるのだ。
人は、案外束縛されることを好む側面もあるから面白いさて文末に、こう指摘しておこうW
このサイトでは理論的の多く人間の影響を受けているように擬態している。
簡単にいえば、理論を明示しているように偽装しているのだ。
事実、明確な事例をこのサイトは一つも明示していない。
反証性もない非科学論なのだ。
そして、それがすで宗教になっているのだ。
事実、疑う姿勢など一つもないし、反証した形跡がないのだ。
もちろん、当人は、科学の射程の限界を論じているつもりだろうが、まったく科学を理解しないで
「理論」を騙っているのだ
その姿は「科学を知ったような」ものと同じであり、科学ではない。
詐欺師の手法と同じで、実態のない論法なのである。
もちろん、それに騙されるのは当事者の問題だろうがW
もっとも、感情的生き方はすでに動物以下の話だから、
彼らには動物以下という評価の方がいいかもしれない。
行動を律するものがない自由人はなんでも自己正当化できる。
テロリストの人間性も犯罪者の人間性も、すべて「人間性」で処理できるのだからW