マイノリティの独白

大衆批判と自分も大衆の一員であるディレンマと・・・・・・・・・・

「国旗国歌の強制に関する東京地裁判決」に思う

長いタイトルですね。しかし、ちなみに、リンク先である「ヤメ氏」 のブログは炎上しそうなほど、レスが多いです。なかなか危ない人もいて、大多数の見解は少数の見解を支配できる、部類の発言を堂々とできちゃう全体主義者もいらっしゃります。同時に、「2ちゃん」的な荒らしが予想通り、反対者側から出ました。こういう部分で地裁容認派は理性的というか常識的な行為で言論できるのに、反対者側には、荒らしがいたりするのが悲しい現実だったりします。(そういう人間を恥じないのもある種の賛成側の公共性意識の問題に関わってくるのですがねぇ。)
 "「国旗国歌法」に思う" でも、語っていますが、自分は国旗国歌なんかどうでもいいんです。他人がそう思うなら、それを尊重しますが、強制される謂れありません。自分の認識が正しいと言い張って、強制するような輩は、マニフェストディスティニー時代のアメリカ人と同質です。(これについては自分で調べてください。嫌味です)
そして、同時、ここで私個人としては司法判決そのものは是認しますが、その理由に関しては非常に疑問を提示し、高裁では、判断(就業時に内心の自由の元、服務命令に反することが許されるのか?)が地裁と違えると予想しておきます。ただし、都の教育委員会の強制措置を合法とすることはないでしょうけどねw係争のテクニカルな問題で、議論の的になってることと係争論点が違うなど、複雑な要因があって、理解が進んでいないことも加味して「言いたい放題」してみます。

あと、さっさと結論知りたい人は、こちらへ



「難波孝一」氏に関してまず、指摘しておく。司法判断を下すのは裁判官であり、法の素人である人間がそうそうケチつけるのはいかがかと思うが、氏に関してはいさかか、疑問符がつく。旧国鉄の組合差別認定 慰謝料14億円支払い命令 解雇無効の主張は認めずに関しては日本の労働法、労働認識の未熟さを感じるものがあるのだが(ちなみに、公務員の労働争議権を日本ほど狭く規定してる国家は稀で、ILOに指導を毎年受けてます。おそらく知らない人多いでしょうがw労組の組織率もOECD諸国でも最低ランクです。)ちなみに知己の外国人が交通機関のスト行動が少ないことを非常にいい意味でも悪い意味でも驚いていたことを思い出しますが、それはまた別のお話です。
 上の事例も、解雇を無効とする主張を否定した部分で多少は理解もできなくもないが14億という金額は、JR側への応報的賠償金額だと思えてしかない。アメリカなどでは企業への応報的な賠償責任を認めることが多くセクハラ事犯で億の命令とかくだりますが、ここは日本です。刑罰の思想において、日本には応報刑的なスタンスは基本的にはないわけですので、額面的にも異常だと思われる。
あくまでも私見での難波氏の評価なのだが、少し懐疑的に見る必要はあるだろう。
さて、判決を整理して思案しよう
争点1の”原告らの訴えのうち公的義務の不存在確認請求及び予防的不作為請求には,事前に救済を認めないことを著しく不相当とする特段の事情がなく,不適法か”にはまったく否定しえないし、この部分では、原告の違法性がまず断定できるのではないだろうか・・
問題は争点2,3である

争点2 在職中の原告らは,都立学校の入学式,卒業式等の式典において,国旗に向かって起立して国歌を斉唱する義務を,また,音楽科担当教員である原告らは,国歌斉唱時にピアノ伴奏をする義務をそれぞれ負うか。本件通達及びこれに基づき学校長が原告らに対し発した職務命令は違法か。


これに対して、判例では以下の通りである
<>内は判例内容抜粋
<我が国において,日の丸,君が代は,明治時代以降,第二次世界大戦終了までの間,皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられできたことがあることは否定し難い歴史的事実であり,国旗・国歌法により,日め丸,君が代が国旗,国歌と規定された現在においても、なお国民の間で宗教的,政治的にみて日の丸,君が代が価値中立的なものと認められるまでには至っていない状況にあることが認められる。>

確かに皇国思想が大日本帝国憲法には統帥権保持者として明確に指摘していたわけであるが、軍国主義を象徴する存在というのは精査の余地があるだろう。拡大する軍事力を背景にする外交を軍国主義というわけだが、ワシントン・ロンドン軍縮条約、不戦条約など日本が軍国主義に染
らないでいた事実や、国旗をそのような象徴として駆り出すような傾向は日本だけではないことも鑑みれば、日本が軍国主義であった時期は長くないわけであり、それ以外の時代において国旗が国民統合の象徴だったこともあるわけであり、氏の指摘するような側面だけが明白ではないだろう、同時に、朝日新聞のマークである軍艦旗(自衛艦旗)などはその側面を強く感じる人は多いだろうし、そちらならば、軍国主義を想定されるに自然ではある。
価値中立的ではないというのは、否定できないものがある。国旗、軍艦旗を掲げる街宣車などを中立と見なすことはできないし、皇国思想を賛美し、旧態以前とした天皇主権国家概念などを想起させる言動では、しばしば国旗が使われる。特定の宗教サイトでも「日の丸」を宣伝することもしばしばあるわけで、価値的な中立性については指摘を否定できないにしても、偏りを意識するほどの存在ではあろうとは思えない。学校行事などで安易に使われる国旗は習慣的に親しむ、看過される存在であって、それが中立ではないことでもないだろう。


<このため,国民の間には,公立学校の入学式,卒業式において,国旗掲揚,国歌斉唱をすることに反対する者も少なからずおり,このような世界観,主義・主張を持つ者の思想・良心の自由も、他者の権利を侵害するなど公共の福祉に反しない限り,憲法上,保護に値する権利というべきである。したがって,教職員に対し,一律に,入学式,卒業式等の式典において国歌斉唱の際に国旗に向かって起立し,国歌を斉唱すること,ピアノ伴奏をすることとの義務を課すことは、思想・良心の自由に対する制約になるものと解するのが相当である。
  この点に関し,被告らは,本件通達に基づき校長が教職員に対し国歌斉唱を命じ,ピアノ伴奏を命じることは,教職員に対し一定の外部的行為を命じるものであり,当該教職員の内心領域における精神活動までを制約するものではなく,思想,良心の自由を侵害していないと主張する。しかし、人の内心領域の精神的活動は外部的行為と密接な関係を有するものであり,これを切り離して考えることは困難かつ不自然であり,入学式,卒業式等の式典において,国旗に向かって起立したくない,国家を斉唱レたくない,或いは国歌を伴奏したくないという思想,良心を持つ教職員にこれらの行為を命じることは,これらの思想,良心を有する者の自由権を侵害しているというべきであり,上記被告らの主張は採用することができない。>
  思想,良心の自由といえどもそれが外部に対して積極的又は消極的な形で表されることにより,他者の権利を侵害するなど公共の福祉に反する場合には、必要かつ最小限度の制約に服するものと解するのが相当である。そうだとすると,原告らは,教職員又は教職員であった者であることから,原告ら教職員に対し,入学式、卒業式等の式典において国歌斉唱の際に,国旗に向かって起立し国歌を斉唱する義務,国歌のピアノ伴奏をする義務を課すことが,公共の福祉による必要かつ最小限度の制約又は教職員の地位に基づく制約として許されるかどうかということが問題となる。中立的価値観に人間は少なからずいるだろうとは思われる。
<このため,国民の間には,公立学校の入学式,卒業式において,国旗掲揚,国歌斉唱をすることに反対する者も少なからずおり>

・いますねぇ。。原告

<このような世界観,主義・主張を持つ者の思想・良心の自由も、他者の権利を侵害するなど公共の福祉に反しない限り,憲法上,保護に値する権利というべきである。>
ポイントはここなのでしょうね。

公共の福祉に値するほど、国旗国歌はその効用が存在しえるのだろうか?社会的な効用として国旗がどのような効果を持ち、どのように作用するのか・・・・これも分析するべきことです。国旗に国民統合の効用を見出すことがでいます。しかし、効用として「国民統合象徴的存在として、天皇陛下がいらっしゃるわけですし、二つも統合する軸があればブレを生み出すとしか言えません。(ここで、皇国思想と国旗論に回帰できる要素がある)また、世界市民思想の持ち主にすれば、国家とは私権の制限機関であり、その効用さえも否定的であったりしますから、国家の象徴性に関しても、社会的な効用は明白ではないでしょう。同時に統合されることが必ずしも言いことではないことは、ナチスを見れば分かります。

<したがって,教職員に対し,一律に,入学式,卒業式等の式典において国歌斉唱の際に国旗に向かって起立し,国歌を斉唱すること,ピアノ伴奏をすることとの義務を課すことは、思想・良心の自由に対する制約になるものと解するのが相当である。>

ある種の人はこういいます。「公務員が国家の意向に反対するべきではない」と・・・そうすると公務員は国家の下僕ですか?公務員は国民の下僕ではありましょうが、当然、国家意思を否定する権利はあります。職務命令違反であってもその権利は存在し、その権利の結果起こるであろう実害への責任も負うことになるでしょうがね。
国家の意向に抗う権利は、近代法において、抵抗権、革命権で自然法として認定されている以上は、権利はあるでしょうからね

<人の内心領域の精神的活動は外部的行為と密接な関係を有するものであり,これを切り離して考えることは困難かつ不自然であり,入学式,卒業式等の式典において,国旗に向かって起立したくない,国家を斉唱レたくない,或いは国歌を伴奏したくないという思想,良心を持つ教職員にこれらの行為を命じることは,これらの思想,良心を有する者の自由権を侵害しているというべきであり,上記被告らの主張は採用することができない。>

こういう発言をする人がいます
「拒否するなら、そこに居なければいい」という人。そもそも、それをすることさえも職務命令違反なのですが、そこはどうするんですか?
そもそも、精神的活動と日常の対外的行動の関連性は言及することもなく、拒否側の内心の自由権を侵害してる事実認定は言及しきれるだろうとは思う。
「国旗国歌を掲揚する義務」があるとする側の論理で
”国旗国歌の慣習的から”、妥当性を見出す人がいる。これに関しては否定することがないが、その慣習を押し付けるだけの合理的な理由があり、拒否する権利を侵害するほど、堅牢な慣習であるのだろうか?そういう部分で天秤を持ち出せないと、自由を制約できないのが法理であり、公共性の問題に関する定則である。

<学習指導要領は,原則として法規としての性質を有するものと解するのが相当である。もっとも、国の教育行政機関が,法律の授権に基づいて普通教育の内容及び方法について遵守すべき基準を設定する場合には,教育の自主性尊重の見地のほか,教育に関する地方自治の原則をも考慮すると,教育における機会均等の確保と全国的な一定の水準の維持という目的のために必要かつ合理的と認められる大綱的な基準に止めるべきものと解するのが相当である。そうだとすると,学習指導要領の個別の条項が,上記大網的基準を逸脱し,内容的にも教職員に対し一方的な一定の理論や観念を生徒に教え込むことを強制するようなものである場合には,教育基本法10条1項所定の不当な支配に該当するものとして,法規としての性質を否定するのが相当である。(最大判昭和51年5月21日民集30巻5号615頁,最一判平成2年1月18日集民159号1頁参照)>

”指導要領から”妥当性があるという人は明確な反論が可能である。そもそも、指導要領は法的な拘束力はない。憲法26条にあるように親権は保護者にあるものであって、旭川学力テスト事件を見ても、明確に国家の教育権を規定していない。同時に、指導要領は学校という内部規律として成立しているが、それを否定するだけの内心の自由はある。校則が改定されるように、指導要領も改訂するものであるし、就業規則に違法性があればそれを阻却できるように、指導要領を根拠にする義務は明確ではない。ただし、学校施設の公共性を鑑みると、その維持のための定款などは尊重されるうるものであって、そこを犯す自由権はありえないだろう。


”生徒が主体の学校であるから、我慢しろ”、という意見に関しては、商売における消費者と販売者、生産者側のケースで考えることもできる。どんなに生徒、消費者が上位で主体であろうと、その主体が非合理的で主張や違法性のある行為を行えば、それに抗う権利は発生する。極端な話が、契約意志のある消費者が不当な行為を行う可能性があれば、契約を回避することも社会的にも法的にも許されるわけです。煽るようだが、卒業式などの学校行事は生徒が主体であるべきなのだが、現実は違う。学校のカリキュラム的なもので、その生徒の自主性は重んじられるわけだが、概してポジティブに卒業式を行うわけではなく儀礼、形式的なものである。そういう部分では卒業式を出ない生徒がままいるわけであるのだが、そのような人はやはり少数派として無視していいものだろうか?生徒の自主性を重んじるなら形式を儲けるべきではないと思うが、なぜ、そのような形式を形成して自主性を重んじるというのだろうか・・矛盾しているといえることである。卒業式という形式ばったものに違和感を覚えるのが不当だというならば、論拠してほしいのだが

以上が自分の見解である。多くの人間が何事もなく卒業式、学校儀典を経過してきただろうが、指導要領は生徒の自主性を重んじるといいながら、形式を儲けて縛る。公共性において、自由の制約があるのは当然だが、国旗国歌に公共性があるというのは、普遍的ではないだろう。



判例の結論を修正して、結論としたい
国旗・国歌法の制定・施行されている現行法下において<削除1>それらを尊重する態度を育てることは重要なことである。<削除2>式典において,国旗,国歌に対し,宗教上の信仰に準ずる世界観,主義,主張に基づいて,国旗に向かって起立したくない教職員,国歌を斉唱したくない教職員,国歌のピアノ伴奏をしたくない教職員がいることもまた現実である。<加筆>同じような価値観の生徒も想定できる。このような場合において,起立したくない教職員,斉唱したくない教職員,ピアノ伴奏したくない教職員に対し,懲戒処分をしてまで起立させ,斉唱等させることは,いわば,少数者の思想良心の自由を侵害し,行き過ぎた措置であると思料する次第である。そのような措置がまかり通る現実を同じ価値観の生徒が見れば、教育上において自由の尊重が危機にさらされるし、教育の自由の形骸化にも帰結する。国旗,国歌は,国民に対し強制するのではなく,自然のうちに国民の間に定着させるというのが国旗・国歌法の制度趣旨であり,<加筆>刑法92条における国旗感性であり学習指導要領の国旗・国歌条項の理念と考えられる。<加筆>同時に指導要領の法的正確性から、内心の自由を拘束する本件通達のことを鑑みると違法性を指摘できる。これら国旗・国歌法の制度趣旨等に照らすと,本件通達及びこれに基づく若枝長の原告ら教職員に対する職務命令は違法であると判断した次第である。
  以上検討した結果によれば,原告らの請求は,主文第1ないし第5項の限度で理由があるのでこれを認容し,その余は理由がないのでこれを棄却することとし,仮執行宣言の申立てについでは不相当であるのでこれを付さないこととして,主文のとおり判決する。
  (東京地方裁判所民事第36部 裁判長裁判官難波孝一,裁判官山口均,裁判官知野明)

削除1<生徒に,日本人としての自覚を養い,国を愛する心を育てるとともに,将来,国際社会において尊敬され,信頼される日本人として成長させるために,国旗,国歌に対する正しい認識を持たせ>
まず、国家の構成員である国民としてどうあるべきか、において国家を愛さなければならない、というのは、国家よりも地域や家族を愛する価値観を否定しかねないものであるし、国家が国民との構成契約を破れば、国家を愛しない状況も想定できるわけで、上記の指摘は不要である。
削除2<そして,学校における入学式,卒業式等の式典は、生徒に対し,学校生活に有意義な変化や折り目を付け,厳粛で清新な気分を味わさせ,新しい生活への動機付けを行い,集団への所属感を深めさせる意味で貴重な機会というべきである。このような入学式,卒業式等の式典の意義,役割を考えるとき,これら式典において,国旗を掲げ,国歌を斉唱することは有意義なものということができる。>
現代の教育現場における儀礼式典は形骸化している。卒業式をボイコットする生徒や自主的に式典を行う学校さえあり、学校における式典にそのような効用があり、必要だとするに至れない、よって削除する

うは・・また長いよ。しかも、バランス悪いしw

今回の記事は、この段組の一つ上の「判例の結論を修正して、結論としたい」から読むのが一番、いいとは思う。
疲れたっぽ(=゚ω゚)
←FC2のブログランキングに参加しています。ニュースカテで2位です。
投票(クリック)お願いします
関連記事

コメント

self0507 #-

>大局を見た場合、今回のこの時期に限り私は、「国旗国歌の強制に関する東京地裁の判決」を容認しますが、何故この時期に?という疑問点は残しています
ある意味においては歴史的必然かもしれません。

イラク戦争、BSE問題、再編問題、ヒズボラなどの行動源泉にナショナリズムがあるというのは、論理的には無理もない思考だと思います。(構図的には国家主義VS民族主義、国益主義VS国際協調主義)という見方も可能でしょう。そういう部分的、国家とは何か?という再考察の必要な司法判断とも言えます。記事読んでもらえれば分かりますが、相克する自由の対立である本件はどちも加害者であり被害者である構図があるわけで、相互に歩み寄らない限りは法的な解決は可能であっても、本当の意味での解決はない、と思います。
まぁ、お話の広島、長崎、沖縄の事例は政治的な背景において存在したことは地域でも有名なお話のようですが、強制する側の問題(ある種の強制の類似系で、強制ではないという弁明があるが、実質的には地域的結合を無視できないゆえの強制だと認識しておりますが)でありましょう。PTA組織も一緒になって活動していた事例などもあるので、ここらはある程度は精査するべきでしょう。当然、強制という法の構成はかなり難しいのでしょうが・・
ADHDの児童、生徒の人数は確実の割合の統計でも逓増しているようです。確か、東京の事例でも階段突き落とし事件があったと記憶しております(被害者が教師だったケースだと思いますが)
ADHDとの付き合い方に関しては、一般の特殊学級での扱いが困難であり、現状の普通教育における特殊学級制度も踏まえてお話するべきことだと思います。ただ、ADHDは基本的には外的作用に及ぶ事例も多いわけですが、基本的には内的作用が多くあり、自傷行為などが多く伴う病理だと記憶しております。個別を精査して取り扱うべきなのでしょうが、ボトムに対する教育というのが学校教育ではべースであることもしばしばです。公教育はボトムアップが優先でアベレージを確保し、なおかつハイアップを目指すということで無理難題なわけです。そういう部分で住み分けが必要なわけですが、実は子供のADHDという病理は普遍的なものという主張もあります。(厳密にいえば、7歳前後までは根本的にはADHDの特徴である他動性(過活動)、注意力散漫(ぼんやり)、衝動性(切れる)などは誰しもが持っているとも言われます。大人になるにつれて、この傾向が減退するという見方も多いわけで、高学年までADHDの傾向がある児童などは「成長が遅れている健常児」という見方をするしかなさそうです。成長の程度の差異も踏まえて教育現場は対応しなければなりませんが、ADHDは程度問題あり、その線引きすら困難なので、区別化するに基準がないという問題があるようです。そこらは逃げ口上ではありますので、これ以上は弁明しませんが、児童心理学などでの発展をもっていて対応するべきなのだとは思います。
>他動児の面倒を無理やり押し付けられて、円形脱毛症ができてしまった児童の気持ちは、一体どうしてくれるの?

まぁ、教師からの逃げ口上からすれば、そういう児童との関係性を持つことも「経験学習」だと弁明するのでしょうが、確かに問題ではありましょう。面倒を見る側の年齢、発展度合いにもよりますが、それも教育の一環として捉える教員もいるわけで、これなどは「ダメ」とはいいきれないものがあります。同時に、子供同士の付き合いというのは、リアルでは悩みを抱えながら発育するものであって、この程度の障害はむしろ必然だという教育者もままいます。(私もどちらかというとそちらに近いのですが)もし、保護者であれば、面倒を見させることを拒否すればよろしいのでしょうが、教師が使役するのではなく、周りが誰も面倒みないから、自分が・・・という自発的行動によるものであるケースをまま聞きます(特殊学級から普通学校への移転などでそういう児童がいるようです)
自発性のある親切心からであれば、親であってもそれを止めるべきではないとは思いますが、個別案件なので精査してみるべきでありましょう。
長い文章でいつもながらすいません(汗)

2006.09.26(Tue) 23:06 | URL | EDIT

東西南北 #-

 cynthiaさんへ

 部落開放同盟の「差別確認・糾弾会」のことをお調べになれば、真相がわかりますので、おすすめします。同和問題が本質です。

 労働組合(日教組、全教)と民主党、社民党、日本共産党の問題ではありません。事実誤認しないようによろしくお願い申し上げます。

2006.09.26(Tue) 22:15 | URL | EDIT

cynthia #-

確か、君が代を国歌に制定したのは、尾道市高須小学校の慶徳校長が自殺した事件があった後だと記憶しています。その前は世羅高校で、学校長自殺事件がありました。
自衛隊のイラク派遣・BSE問題・米軍再編成問題・小泉の靖国参拝・ヒズボラ勃発などの大局を見た場合、今回のこの時期に限り私は、「国旗国歌の強制に関する東京地裁の判決」を容認しますが、何故この時期に?という疑問点は残しています。

私は、自分がカトリック信者ではないにもかかわらず、受験した勢いでカトリックの私立中学・高校にはいってしまった部類ですが、「骸化した儀礼式典」は御ミサや聖書でも同じように違和感を覚えました。これは、聖書がもともと西暦0年にヘブライ語で書かれているものを無理やり日本語で読んでいることとも関係していると思っています。
また一方で、平和学習を推進される日教組や共産党の小学校の先生方が、尾道市高須小学校のような、武力こそ伴わないけれども政治的な学園内闘争を繰り広げられることは、「平和が平和が・・・」と言っている事とやっていることが、あまりにも矛盾していると考えます。

広島では、「平和学習」「同和・人権学習」を(子ども会というパイプを使って)無理やり親子で受けさせられていた時期がありました。
例えば、朝、奥さんが亭主の靴を磨いて揃えて「いってらっしゃい」というのも差別だから、するな。先祖の墓に手を合わせるのも差別につながるので、するな。小学校で尊敬する人はと聞かれて、子供が何気なしに「徳川家康です」と答えると本人をつるし上げただけでなく、夜遅く、その子の家にTELで親を罵倒する。・・etc

こういった事情をself0507さんは、ご存知なのでしょうか?これらは、慶徳校長自殺事件以前の古い話ですが、現在では総合教育推進運動のしわ寄せのため、ある小学校では、昨年の2年生の1クラスに5人の他動児が集中し、授業ができないという問題だけでなく、その5人のなかに階段突き落とし児童がいて、学校内における児童の安全問題でもめています。どうして、現在の公立学校は、安全でないのか?法や道徳をきちんと守っている側の安全が、どうして脅かされるのか?大人でも大変であるのに、他動児の面倒を無理やり押し付けられて、円形脱毛症ができてしまった児童の気持ちは、一体どうしてくれるの?

・・・・・・・・・・・・・
これ、現在・過去にお子様を公立小学校やられた私の知り合いと私の意見が混ざっています。

2006.09.26(Tue) 16:32 | URL | EDIT

self57 #-

まず、かかる判決において、雇用関係にあることの確認は「解雇には合理的な理由がある」として退けていることから、解雇によって発生し損失の回復の必要性ないでしょう。
JRに採用される可能性があったとする原告らの「期待権」が侵害された、というか、期待するのは自由であるがそれが叶わないことはありえることであって、実際にはどのみち採用されないだろう人も想定されるわけで、この賠償を認めると「期待権」というものが拡大解釈される可能性が大きい。期待することは自由であるが、それに応じられない事情があることも想定されうるべきであり、期待権そのものを否定しないでもその権利は上位性まで認めるべきではない、ということである。株式や医療関係でも期待権なる権利での係争があるわけだが、最高裁レベルではそのような判例を知らないわけで、地裁レベルでの「期待権」なるものを認めることはできない。同時に、3年の時間経過という事実関係を精査したにしても、事情があるにしても実例(差別事犯の時効に関する最高裁判例)があるにしても本件をそれに該当されるものとは思えません。感性的な問題でしょうが

2006.09.24(Sun) 22:55 | URL | EDIT

東西南北 #-

ヤメ蚊さんの意見に完全に同意致します。

2006.09.24(Sun) 20:12 | URL | EDIT

ヤメ蚊 #-

【難波孝一裁判長は、旧国鉄に組合差別があったと認め、原告組合員 288 人のうち 283 人について、それぞれ 500 万円、総額 14 億 1,500 万円を支払うよう同機構に命じた】一人500万円では懲罰的だとは言い難いでしょうね。

2006.09.24(Sun) 20:01 | URL | EDIT

self57 #-

判決の結論の部分を大胆に削除してみましたw
ついでに「生徒、児童」という学校において主体性のある対象から、今回の都の姿勢の問題を提示することで、その違法性、異常性を指摘した次第です。
クソ長いのですが、最後の「結論」の部分が一番のミソです。
ちょっと自己満足だったりしますねぇ(`・ω・´)

2006.09.24(Sun) 18:03 | URL | EDIT

東西南北 #-

異論ありません。完全に同意致します。

2006.09.24(Sun) 16:51 | URL | EDIT

コメントの投稿


トラックバック

わが憲法の星座の不動の星は,公権力は世論を統制しないことだ〜国旗敬礼強制事件連邦最高裁判決 情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士

「問題は,わが連邦憲法の下で,本件で採用されたごとき強制が,その目的達成のために許容された手段であるか否かである…。少数意見を強制的に排除しようとする人たちは,やがてすぐ彼ら自身が少数者を皆殺しにしようとしていることに気づくであろう。意見の強制的な画一化

2006.09.24(Sun) 20:00

トラックバック URL

アクセビリティ

文字を大きくする 文字を規定のサイズに戻す 文字を小さくする

プロフィール

冥王星

Author:冥王星
予備校の世界史講師
アナーキスト
バイセクシャル(二次元限定)
ペドフェリア(二次元限定)
既婚・主夫(家事主力)
政治活動家(稼げない)
世俗的に言えば「左翼」

(結論)
変態な予備校講師

検索フォーム

カレンダー

04 | 2012/05 | 06
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -