今回の記事は sirokaze氏への回答 という形式です。
元記事のコメントに対する返答です。
銀河英雄伝説を読んだことのない人にはまったく不明な話なのでスルーすることをお薦めします。
法治主義・立憲主義を優先した結果が滅亡。
というのは視点が違うと思う。
まず、滅亡の要因になった自由惑星同盟の暴挙の原因は何か?
民主主義的要請によって担ぎ出された扇動政治家である(ヨブ氏)と扇動政治に刺激された愚民だろう。
現代の日本人が愚民だと思っているが、それはまた別の話にしたい。
勝利者とも言えるラインハルトの銀河帝国も立憲主義なのである。
ヤンVSラインハルトという対立構造は、実は立憲主義・法治主義同志の対立でしかない。
自由惑星同盟VS銀河帝国という構造(共和制VS専制)という構図は二人には該当しない論題と言えるだろう。
つまり、
[太字]ヤンもラインハルトともに立憲主義・法治主義[/太字]であり、勝ち残った存在である。
救国軍事同盟は軍人によるいクーデーターであり立憲主義・法治主義の正統性は存在しないのである。だからこそ、統治さえできないのである。仮に比喩するならば、
ヤンは「共和制民主主義者」
ラインハルトは「立憲君主主義者」というモデルが可能だろう。
二人の相違点は単なる現代における民主主義的主権の所在の差異しかない。
(
実質的には、ラインハルトは主権在民に近い治世で、あくまでもタイ・UAE王室のように特別な政治行為以外は自ら為政者になろうとはしていないと思うが)
自由惑星同盟の「民主主義」が滅亡の原因であり、
ヤンが放棄した衆愚政治的為政者への道筋は
その後のヤンの政治的行動は、結果論で生まれた衆愚政治回避への方法論に過ぎないのである。
そして、それをヤンは採用せずに、ヨブ氏を憎み続けたわけである。
彼は「国家民主主義」を嫌悪し続けたとも言えるのである。そもそも、「民主主義」隆盛の時代と思われる現在だが、立憲主義なき民主主義などは存在しえない。
立憲主義が民主主義的プロセスで制定されているだけで
主権人民ではなくても、形式的な君主主権制度の方がフレキシブルに政治対応できるのも事実だろう。(諸外国に存在する王室国家は建前論の君主主権である)
「君臨すれども統治せず」という状態の安定性は歴史的にも妥当性ある評価だろう。
たまたま帝国が「民衆を殺さない」という軍隊であるから、問題なかったが(同人誌では、自由惑星同盟からよりも社会システムが安定したとか書かれて、キャゼルヌがしょげていたとかあったが(笑))、シナチョンのように、引き上げ者に対する強姦多発など起きている可能性のほうが、現実はもっと多い
。
現実は知らないし、知ったように語ることについて、言及しない
「知ったか」の言動を批判したとしても、自分も「知ったか」である以上は、言及しない。
ちなみに、ラインハルトは民衆を殺さないではなく、軍規を持ち込んでいる。
方便とは方便だが、ラインハルトの民主支持は法治主義の遵守によって担保されているのである。
貴族のような非法治主義的行為をしないことがラインハルトたりえる部分であり、実力主義が根底にもあるのだろう。
ヤンはこの点に関して、ラインハルトが暴虐な専制君主であったとするなら、立憲制を守っていたかどうか? については甚だ疑問が残るところである。
ヤンにとって、ラインハルトが暴虐な専制君主であったら・・・・
という仮定は興味深いが、
私見でいえば、ヤンはおそらく法治主義の枠組みを守っただろう。
「法治主義システムを蔑ろにするからこそ、暴君である」
というのが冥王星の見解だし、ヤンは自分個人の価値観を参考にして政治判断を行うことはできない軍人である。
常に何らかの行動担保・正当性をもって行動していること、それは法治主義・立憲主義の前提がほとんどであることからも、この仮定の結論には、立憲主義を守ったと考える。(残念ながら推測の域だが)
「悪法は法か?」という法哲学の論題にも帰結するので、個人で考えて欲しい。
少なくとも、冥王星にとっては「悪法でも法」である。仮に、悪法ならば改正を求めて活動するのが優先されるべきだろう。
悪法という個人判断で法を無視すれば、社会は維持できない。悪法という判断が悪用される危険性があるからこそである。
また、ヤンは民主主義すら守っていない。
国家の滅びる命令と共に運命をともにしたのである。
これは間違いだろう。
まず、ヤンは生き残る道を選んだ。これは、立憲主義である。
自由惑星同盟の憲法を詳細に知らないが、
軍人の「生存権」を否定することはできない。生存権は自然法であり、立憲主義に含まれる要素である。(自由惑星同盟に変な政治家がいて「戦陣訓」でも頒布していれば別だが、それは不可能だろう)
「立憲主義」とは憲法だけではなく、自然法の領分も入る。それらは国際法関連の確認事項も含まれる。作中にも捕虜規定があるように、人道法が存在しえた可能性は高い。
全体主義的時代(戦中)は、”国のために死ぬことが民意である。”となっていた。自由惑星同盟にそのようなヒステリックな一派があったが、ヤンにそのエッセンスは皆無である。
「虜囚の辱め受けること無かれ」との訓戒は法的な正当性はないものであるし、立憲主義ではない。
(立憲主義は制定権利者が人民であるか、人民に認められる最高指導者である必要がある)
まず、自由惑星同盟滅亡時の民意は不確定だが、
自由惑星同盟と銀河帝国の歴史が風化した形跡はない。
その闘争の歴史の根底には何があるか?
「自由の戦い」である。そして、自由惑星同盟が滅亡した時点でその目的は
「民主主義を残すこと」が民意だったと思う。(現実にユリアンが後継者として民主主義を残す選択肢を最後に提示することになるが)
少なくとも自由惑星同盟の祖先は自由を求め、殖民し立国し、その精神は立憲主義の中に息づいているだろうと推測できる。
そう考えれば、ヤンは立憲主義を守ったとも言えるだろう。
もちろん、推測の域は出ないが、文中に自由惑星同盟のアイデンティティとして記述されていることを見れば、そう推測できる。
同時に、ヤンの述懐の中で
「国よりも人民が優先」
という趣旨が存在する。これがまず、「国家民主主義」への痛烈なメッセージだろう。
ここを右派と称する人間がどう評価しているのか?は知らないがヤン自身が民主主義として、
国家民主主義をネガティブに捉えていることは否定しようもないだろう。
ヤンにとっては、”国が滅ぶ運命”は受け入れることができる問題なのである。
ヤンにとっては「国家」という器の価値は、器として機能している限りは意味を見出しているだけのことでしかないのである。
ヤンは、国家に対して非常にドラスティックかつリアリストなのである。
だからこそ、結局は公僕としての自分の地位に対してネガティブなのである。
ラインハルト・ヤンとも生き残りの共通項は何か?と問われれば
「国家」という器に拘らない強さと言えよう。
少なくとも、器として使える部分だけ使うというのが、二人のリアリティである。
一方、国の拘った存在はどうなったのか?
それは作中でも明らかである。そして、作中でもっとも早くに滅びるのが国家主義的存在の人間である。現実はそうとも言えないのだが
後に自分の命が奪われそうになると、逃亡して、イゼルローンを占拠してしまったりもする。
この凄まじいまでの矛盾と無意味さは、ヤン一党だけを守ればそれでいいという自己中心的な司令官でしかない(笑)。
ヤンとヤン一党の目的は個体差があるが
「銀河帝国打倒」という信念の一方で、「自由」に対する信仰心にも近い信念を持ち合わせている。
自由惑星同盟という器では守れないだけで、簡単に違う器を用意し、用意されたエルファシル政府という新しい自由の器に乗り換えただけに過ぎない。
ちなみにこの文面を読んでいて一番分かりやすいのが
「この凄まじいまでの矛盾と無意味さ」という文章だろう。
無意味という価値観に至る過程に、価値観の狭量さが浮かぶのである。
それは、国家主義適者な国家への執着心というものだろう。そこには国家なしには自己を保てないアイデンティティの希薄さがあるかもしれない。もっとも、その国家依存は程度論であろのだが。
(国家依存の激しい人間の多くは、国家依存しないアナーキストたちに嫉妬するから困る。はたまた国家に依存しない自由民を迫害する一面があることは、ナチス・ジプシー・インディオの歴史から学ぶべきだが、学ぼうとしない上に反省しないで開き直ることも多々あることも指摘しておこう)
自己中心的なのはヤンに限らず全てのキャラクター・人類に言えることなので指摘の必要性はない。従って批判に値しないし、程度論にしても価値観の偏重をベースとしていると判断する。
あくまでもヤンとその一党にあるのは、国家ではなく、
彼らにとっての「自由」なのである。
もっとも、「国家」という器に執着するしかない方々には理解できない意識ではあろうと思っている。
つまり、国家民主主義者は、国家という器によって「自由」を守ってもらえると思い込んでいる社会弱者ということも言える。(アナーキスト的な見方でいえば、国家民主主義者と思われる存在は社会弱者である。)
ラインハルトも見事に国家という器を否定しえている存在というのも事実である。
彼自身は国家という器に対して留意することはほとんどない。
彼にとっては国家権力は手段に過ぎない。そもそも最終目的は「姉ちゃんを取り戻すんだ!」という世界観から始まり、支配欲ではなく、実力主義における自分の力の試走に終始しているのである。
国家を運営する目的はあくまでも、自分の実力を試すための手段であり、国家は二の次なのである。
彼自身が国家たりえる状況にありながらも、
「簒奪してもいい」(ラインハルトに取って代わることを許す。実力主義)という趣旨の発言を連呼しているのである。
これは、国家という器に拘らないアナーキズム的な実力主義者の為政者と言える。
(ちなみに、「簒奪」と「禅譲」の違いも分からない渡辺昇一氏の歴史知識には呆れてモノも言えないと感じている)
アナーキズムとは断定できないが
”彼はできれば政治に介入したくない為政者”であり、
それは無関心を装っているにしても実力主義・競争主義による社会秩序を目論んでいることは、そのままアナーキズムとも言えるだろう。
”ラインハルト=アナーキスト”という視点は、受け入れられる可能性は低いが、彼はアナーキスト予備軍であることは否定できないだろう。
ヤン・ラインハルトともに信念と現実のギャップが甚だしいが、それをどう乗り切ってゆくのか?というプロセスにこそ、信念を具現化するためのヒントがあると思って受難を受け入れているのだろう。苦労人の人生を客観的に論じてみるとその矛盾こそが二人の魅力である。
追加的にコメントしておくが
シェーンコップが一番冥王星の本質に近い。
ただし、冥王星が為政者になれば、おそらく自由惑星同盟のムライさん程度の人間性になるだろう。むしろ、そうなりたい。
でも、冥王星の一番の目標は、”オーベルシュタイン”閣下である。
さて、立憲主義者としてのラインハルトは独裁者という毛色を持ちながらも法による統治の前提を崩した状況がない。
特にラインハルトが意識していたのが契約履行という信用性の問題であることは、立憲主義・法治主義が形骸化していないから、可能になる信用関係である。
むしろ、立憲主義が崩壊していた銀河帝国時代の悪臭を打破することは重要な実力主義時代の因子である。
ラインハルトにとって、ハンデ戦レースは実力主義の試走ではないのである。(それに関する述懐もある)
立憲主義というルールある実力主義社会こそラインハルトの世界観である。
「国家の秩序維持の真髄は暴力装置の信用維持にある」というのは統治論において無視されない道理である。
だからこそ、ラインハルトは法治主義者・立憲主義というべき為政者たりえるのである。
一方、滅んだ同盟は救国軍事同盟は同盟憲章(自由惑星同盟の憲法)を一時停止し、市中を混乱に貶めた。法治主義的な無法状態によって救国軍事同盟の統治は立ち行かないのは、当然であり、それはラインハルトも図ったことだろう。
そもそも、自由惑星同盟はヨブ氏だけを見れば衆愚政治でありえる。
ヨブ氏は法治主義の前提ではなく民主主義によって正当化されうる存在であろう。
ちなみに
その衆愚政治の状況に同調した軍人が、選挙向けの軍事行動に走った時点で同盟政府は末期症状だったわけである。
ここには、政治の失態をとめられない文民統制の問題点があるが
このような事例があるからこそ「文民統制」の制度について、議論するべきだと思っている。
しかしながら、政治の了承もなき軍人の政治判断は許されないのは、民主主義的な決まりではなく、法治主義的決定であることを総じて、田母神幕僚長の発言は看過できないものである。
いや、これは空想の産物であるヤンは、生来不真面目であるから、
「すさまじく面倒くさがりやで、やむなく流されている」
の性格を知っているのだが、そうでない人間にとっては、
「一応国を作れるだけの力がありながら、責任逃れたいために、民主主義や立憲制に逃れ、挙句のはてに国家にくわせてもらっていながら、国家を故意に滅亡させ、最後は不利な状況で無意味な叛旗を翻した軍司令官」
である見方も可能(笑)。
辛らつな評価だが、その評価の妥当性もあるだろう。
後世の歴史家の評価の問題であり、歴史認識の多様性という問題でしかないが
ヤンもラインハルトと同じくアナーキな因子があった可能性もある。
ヤンは国家という器の機能性に期待していたが、それを運営するための労苦については理解しているのだろう。
ヤンの述懐に政治に関して
「上下水道」というような指摘をしていたのがその証拠になるだろう。
面倒というよりも、彼自身が嫌われたくない人間だったのだろう。
そして、故意であっても、彼は国よりも方を選んだのだろう。
これは更なる私見だが
滅亡寸前の自由惑星同盟を支えようとする”更生した為政者”の姿が映り出されているが、国が滅亡した時の準備を行っていたことが語られている。
国が滅ぶ時にもっとも被害に合う人民であるのだが、取引で人民を救う協定などは多々存在する。
法・憲法は国家なしでも作ることができる。国家ではなく組織であれば可能だし、自然法の領域を考えれば、国などは必要ないとも言える。(組織であれば、定款は作れる)
「問題は、人民が生き残り、どう生きるか?」
そういう考えがヤンにあれば彼の行為は合点が行くのである。
同時に、ヤンは税金を国から貰っているという意識が強いわけでもなく
自分の給与が税金であることを理解していることから、
「国家に食わせてもらった」という批判は妥当性がないだろう。
冷徹に言えば、国家と人民は相互依存関係であり、上位も下位もないのである。
だから、「国家と通して人民の税金で食わせてもらった」という意識が支配的だろう。
そもそも、戦史研究課が国の都合で廃止になったことを終始、恨んでいたのがヤンなのであるから・・・・
一応、ヤンも歴史家を目指していたのだし、艦隊司令官なのだから、「将軍に任命されたからには、 たとえ王の命令であっても受けないことがある」
とでも言うべき立場のものだろう。
なぜなら、まともな艦隊は自分のところしかなく、存亡の危機であり、あと一撃で敵の大将を葬れるのなら、自国の大統領の一人や二人が死んだところで、後継者を立てれば国は存続できるという民主主義システムを蔑ろにしているとしか言いようが無い。
そのような立場を行動しないのがヤンである。彼は決して自己判断で政治的領分の判断は下していない。
ヤンという歴史家が軍人が政治判断を蔑ろにしていいという歴史観に至る可能性は少ない。
その理由は、これまでの歴史上で軍人が勝手に政治判断を下して評価された事例がないからである。これは歴史的な傾向で、多くの歴史家は政治判断を軍人が下すことに対して好意的ではない。
なにより、勝手な政治判断を下した軍人で幸福な人生を送った事例を冥王星は知らない。
例外的に、軍人が後世に政治家になって正当化される事例で評価されることがあるが、多くの事例はその個人は幸福になれるわけでもない。
なぜなら、まともな艦隊は自分のところしかなく、存亡の危機であり、あと一撃で敵の大将を葬れるのなら、自国の大統領の一人や二人が死んだところで、後継者を立てれば国は存続できるという民主主義システムを蔑ろにしているとしか言いようが無い。
存亡の危機に関しては政治的主張ができないのである。
実は政治的に理解すると、当時のラインハルトの遠征はむしろ自由惑星同盟によって「ふかっけ」られた戦争である。
「ふっかけ」という論調で田母神論文は自己正当化している・・これを援用できればラインハルトは正当化できるだろう。
そして、戦争の大義からいえば、ラインハルト側に正当性があるのである。(皇帝拉致・帝国への反旗)
自由惑星同盟側にとっては存亡の危機であろうが、ヤンにとっては戦争の大義からして、疑問が尽きなかったことは述懐にある通りである。
そして、大きな間違いと犯しているのだが
「自国の大統領の一人や二人が死んだところで、後継者を立てれば国は存続できるという民主主義システム」
というのは大きな間違いである。
後継者がいえれば国は存続できるならば亡命銀河帝国は国であるのだろうか?
為政者が何らかの形で支配の正当化ができるからこそ為政者たりえるわけである。
国が存続しえることに為政者の存在担保は必要ではない。
国家というのは、その構成要件として「人民」・「政府」・「領土」・「主権」で構成されるものである。(ちなみに私見では、政府・主権を担保できるのは立憲主義である。民主主義は担保しえない)
これが国際社会におけるルールであるし、実勢もそうだろう。
仮に後継者がいれば国たりえるならば、多くの国家が乱立するだろう。
後継者などは国家の存在そのものには大きな要因ではないのである。
それに関しては、疾風さんが指摘していたような気がするが、簡単に言えば
「後継者が存在しないままでは困る。だけど、その後継者は実力主義では混乱してしまう」
というだけで国は滅びないのである。
混乱することが問題であるとは言えるが、それが国の滅亡になるとは限らないのである。
むしろ、混乱状態による破壊、そして、新しい創造の時代を経ているのが、作中世界の特徴と言えるだろう。
この場合、ヤンにとっては、
滅びる同盟の政府>>>>>>同盟国の多数の人間
という、方程式を取ってしまった。
これは司令官としては致命的ですらある。
方程式として成立しない。
ヤンは、ラインハルトが同盟政府の人民を殺すような為政をしないだろうと推測している。(レンネンカンプさんは不明にしても、あくまでもヤンを焙りだす方便に使う程度だろう)
仮に方程式にするなら
法治主義システム>>>滅亡する同盟政府
であり、「同盟人民」はここでは登場しえないだろう。
そもそも、帝国が旧日本軍のように裁判もしない、裁判記録も残さないような軍隊であれば
「同盟国の多数の人間」の登場の余地があろう。
しかし、ラインハルトが
民衆に結果的に迎合的で優しい聡明なる実力主義者である限りにおいては旧日本軍のようなアフォな行為はしないだろう。それはヤンでも推測できることである。
同時に、同盟人民にとっては、人命と自由のどっちが優先されるのか?は不確定である。
理想としては自由を希求している同盟市民だが、人命では難しい。
で、私見であるが、田母神氏のは、文民統制とはまったく思わない。
今回の事例を銀英伝で挙げれば、ヤン・ウェンリーが「事実」を述べたところで、「政府見解と違う」と言っている輩が、マスコミ含めたサヨクが「査問会」を開いたようなものである。
ヤンが政府見解に否定的な見解を市中で述べただろうか?
田母神幕僚長のケースは、市中で公表しているのであって、ヤンのケースとはまったく違う。
これに関してはユリアンが幾度か、ヤンを嗜めて、しぶし従っていることもヤンの文民統制の見解だろう。査問会はあくまでも軍法レベルの行為であることに対して、田母神幕僚長の行為は軍法領域ではない。管轄と影響力の相違点からして、別物だろう。
なにより、ヤン自身は文民統制として、政治判断の権限を放棄しているし、それが軍人(暴力装置の権限をもった人間)の限界だという意見をしている。
(ユリアンを軍属から下ろすことさえ政治判断に介入すると自制するほどヤンは厳しい文民統制を想定しているようだが・・・・・)
その間に、経済崩壊の兆しを見せているシナチョンが日本の税金で救済措置をとらせようと、画策している。これは、ヤンのいないイゼルローン要塞に、ガイエスブルク要塞をぶつけるという戦略にマンマと引っかかった間抜けな民主党以下、マスコミのあほっぷりとよくかぶると見ている。
ちなみに、中国政府が画策しているというネタのソースは問わない(脳内妄想には付き合わないし、それを求める権利を否定しないだけのことである。)
ついでにあえて糾弾しておくが、
年中、「中国経済の危機」が叫ばれているし、その論説をしている人間は責任ある発言をしているのだろうか?何度も騙されている奴も恥ずかしいが、予測を外しても発言の自由と平然としている似非学者(正論の著作者)門外漢の評論家を見ていると、軽いとしか思えない。その軽い言動に感化される人間も、軽い知性だな・・と嘲笑しているのだが・・・・
ちなみに、扇動家というのは、予言的に危機を煽るものである。ギリシャのソフィストが「正論」の著者に被る部分があるが、表現の自由である。
中国の捏造の問題よりも、まずは自分の言説の妥当性を問えない連中の言説を信用して騙されても平気な愚民はご自由にwそういう人が愚民であるという事実は、「正論」の事実に反し続けた記事だけで論証できるのでw
さて、イゼルローン要塞にガイエスブルグ要塞をぶつける・・・という戦略はあくまでも、イゼルローンの価値がある状況でしか有効性がない。
イゼルローンの執着して、フェザーン回廊に目が行かなかった同盟政府の暗きは思考停止の結果論だろうが、それにしても実力主義者のラインハルトの慧眼は・・・・・・・・・
長くなったわけですが、冷徹にヤン・ラインハルトを評価すると彼らほど
国家主義を否定している人間はいないでしょう。
ラインハルトはあくまでも野望実現のツールとして国家を使役するだけであり
ヤンは、人民の自由のために国家があるとしか思っていない。
二人にとって国家という器の機能性は、機能を有している間しか留意しないのでしょう。
愛国者とはほど遠い二人・・・・・・共通項が実は多いこの二人の分離するのは唯一
「主権在民」
ということだけでしょうか?
とりあえず、もっと深い考察は作品を部分引用する必要性があるでしょう。
文民統制が一番危うい例は、田母神氏の論文より、君が代日の丸反対の公立現場教師であろう。
彼らは文民統制を離れ、勝手に自己中心的な行為と言動と、実力を持って、生徒たちに強要し、思想信条の自由を悪用している一番の好例である。
教師は文民である。まずそれを理解しているのだろうか?w
従って、まずは「文民統制」の基礎として
「文民」を規定することをお薦めする。
ちなみに、「文民」に宗教聖職者が該当しえるのか?という問題も案外、議論されるべき問題でしょう。
最後に、文民統制について一言。
まず、文民統制という概念は個体差があります。
日本は日本の・アメリカはアメリカの・各国の文民統制の規定が経験を重ねて存在しています。
むしろそれらの経験を通して文民統制が議論されてきた経緯を踏まえて、文民統制を議論するべきではないでしょうか?
その上で立法化するべきでしょう。
現在の日本の文民統制は著しい文民優位状況にあります。
自衛隊法を鑑みて、軍人の政治的自由があまりにも限定される状況です。
最低限の「軍人は政治判断を否定する行動を行ってはならない」というレベルの規定は守るべきでしょうが、
軍人も文民も同等です。あくまでも政治判断に対する拘束性についての留意が最低限の文民統制でしょう。
もっとも、2・26の正義を振りかざす軍人がいまだに存在することは、内心の自由ですから認めるしかありませんが、
だったら、あんたらも他人の自由を許せよ・・ということに尽きます。 田母神幕僚長の政治的発言は公務員倫理においても問題があることは当然のことでしょう。
これは文民統制の問題だけではなく、公務員倫理の領分です。
田母神幕僚長の政治行動は肯定して、他の公務員の政治行動は否定する・・・
ここに公平性はないでしょう。あるのでしょうか?
それとも己の価値観で法治主義の正義を否定するのが当然ならば
「自然人」をやめてもらえませんか?(自然人とは法的利益を受けられる人のこと)
自然人をやめてくれるならば、法治主義支配の保護を抜けた前提で
「何を言っても自由です。」
どんなに不公平な言動でも問題ないです。
自然人を辞められないくせに、不公平を維持したいならば、実力で法を変えるなりの努力をしてください。
己の価値観を振りまわして、議論になると思うならば、それは議論ではなくオナニーでしかありませんし、そのオナニーは独善であり続けるだけでしょう。
「俺が正しいんだ」という自由言動はありますが、それを許容できる社会なのか?というのは別問題であるのです。
ということで、冥王星は持戒しているわけですがw
というか、文民統制の規定・定義を語らない部類が多すぎる。
冥王星は、不確定だから確定させようとする部類で卑怯だが、規定してこなかった状態こそ問題だと思うのである。