冥王星は立憲民主主義者でもありますが、アナーキストでもあります。
アナーキストとしての己は捨てきれないのは、法という規範の独善性の課題を感じるからです。
東南アジアのI国であったある結婚騒動に関して事例にしてみましょう。
ある宗教聖職者が第一夫人のお墨付きで第二夫人をコンテストで決定することにして公募をしました。貧しい農村社会を抱えるI国ではその宗教は比較的影響力のある(世界的にも大きな)宗教です。
貧しさから脱するために母親と娘はコンテストに応募し見事にコンテストで優秀し、第二夫人になる権利を得ました。
しかし、その娘はまだ12歳です。
・聖職者は「初潮を迎えていることを確認している」と抗弁
・人権論者は、「人身売買に他ならない」と糾弾します。(人権論からすれば、お嫁さん募集の賞金付きコンテストも無理)
・I国の法律では12歳は婚姻要件を満たせません。(法治主義的には婚姻は無理)
果たして、法や人権論だけでこの問題を論じていいのでしょうか?(初潮を迎えたことは婚姻の正当性になんら関係ないとは思いますがw))
確かにこれを法的に許せば、人身売買が合法化されるようなものですから、許されないのは分かります。では、
「人身売買は全批判されるものなのか?」
という論題になれば、実に疑問が残るのです。)
人身売買を自らの意思で行うという事例は昔からあります。そしてそれは文化のように根付いている宗教・地域さえあります。
歴史上もっとも有名な”当人同士の合意ありき人身売買”はイスラムの「マムルーク」です。貧しい身分から這い上がるために身分の高い人間に仕えて、自分の才覚で出世することがイスラム社会ではできたからです。(イスラム社会の自由度の高さは中世が最盛期とは言えますが、それは実力主義社会であり、アナーキストの目指す世界でもありましょう)
”国家同士で便宜を図って当事者の合意を経て人身売買”する事例としては「移民政策」は合法性があるとされる人身売買であり人権侵害でしょう。
当事者の合意のある人身売買の類似系が人権侵害と言い切れるのでしょうか?
話を戻しますが、
この第二夫人が不幸になるのが明確ならば、それは確かに静止するべきでしょう。しかし、誰が不幸を被ると言い切れるのでしょうか?
アナーキストとしての考えでいえば、
この12歳の娘が結婚する意味を理解した上で結婚に合意しているならば、結婚契約を行う自由は神聖不可侵であり、法律や人権論で、「結婚の意志」を侵害していいものとは思えません。(確かこの娘は自らの意思で第二夫人になることを選んだそうで、それは今の生活から脱したい、第二夫人になって家の生活を楽にしたい、弟3人を学校に行かせたい、という欲もあったそうです。)
(習俗的に理解できませんが、聖職者と結婚することが名誉という社会は数多くあります。ロイヤルファミリーに憧れる人間は日本だけではないことでも分かるでしょう)
結婚というのは、性行為を前提とした契約とは言い切れません。同時に結婚生活は当事者間の問題でその自由は尊重されるべきでしょう。(ちょっと前に、柳沢大臣の「産む機械発言」でも取り沙汰されましたが、家族のあり様に理想像を持ち出してくるような社会が本当に正しいのか?というのは考えるべきでしょう。そもそも、これまでそういう自由の領分には政治介入しないからこそ、自由民主党だったわけです。どうも、自由民主党は、自由より民主を偏重的に重んじるようですが・・・)
法理論・現代社会の価値観の押し付けにすぎない人権論は、あくまでも不利益の発生に対して、権利の回復を図るべきであって、独善的に介入していいものとは思えません。(こういう部分では、司法消極主義も支持しえる部分があるのです)
仮に暫定的な介入であるならば、それは留保するべきでしょうが・・・・
誤解を防ぎたいのですが、アナーキストは決して法を無視するべきという立場ではありません。そのアナーキストの自由は法・国家権力・権威によって実行性を必要とするわけです
さて、この話を持ち出したのは、このケースで冥王星はどういう見解を出すか?という話に還元させたいこともあります。
以前も指摘しましたが、冥王星は
「アナーキスト」「立憲・法治主義」「民主主義」という3つの基本的イデオロギーをコアにして判断を行います。
このI国の事例の「結婚の是非論」では
アナーキスト:8割:OK 2割:NG
法治・立憲主義:10割:NG
民主主義:民意の是非の割合に比例
という配分になります。
民主主義判断が出ていない現状では、OK:NG=8:12です。逆転するためには、民主主義的な判断でOK:NG=8:2という判断が出ればいいわけですが、これは無理だと思われるので、NGという結論になります。
冥王星の政治意志の方法論はこのように運用されます。
これはどのような問題でも同じで、
一つのイデオロギーに拘束されるわけではなく、
都合いいイデオロギーを持ち出して、使い分けたりしません。(ほとんどの人はイデオロギーの使い分けで感情論を肯定するのでしょうが)
総合的な政治判断としては、「まぁ、当事国の法律・人権論・世論の意見に従うのが道理だな」となります。
ただし、アナーキストとしては、その判断には違和感があります。しかし、この三つのイデオロギーの評議によって可決成立したものとして尊重する約束になっています。(いつもアナーキストはマイノリティで我慢しているので、ブログなどでアナーキストな自分が噴出するのですw)
記事でも述べましたが、この三つのコアイデオロギー勢力は均等に三分割されています。しかし、最近は、民主主義の判断と法治主義・立憲主義の判断の価値を同等にしていいのか?という疑問を感じています。
それは衆愚政治という危険性からです。民主制においては衆愚政治→独裁という末路に帰結するとも言えます。
”より多くの人民”が政治意見を持ったがその意見が大きな抵抗もなく実現することで衆愚になるようです。
”人民の自己決定が常に正当性を持つ”という考えは、自己決定=自己責任が果たされるという前提がありますが、どれほど煮詰めた民意が多数を締めるのでしょうか?さっさと別の獲物を探そうする場当たり的な保守主義思考などは、安易に政治判断を行うことによって発生する政治的ミステイクと思えてなりません。
冥王星は、踊る大走査線の「事件は会議室で起こっているんじゃない!現場で起こっているんだ!」というセリフが好きです。で、実際、民意はどこまで行政現場を知った上で論じているのでしょうか?
行政現場に我々は無知だと言えることも自己批判するべきではないでしょうか?行政擁護ではありません。その無知の自覚の必要性です)
これに似た現状が今の日本にあると思えます。立法府は特に顕著で民意にブレすぎます。彼らなりの哲学・論理を持たず、ただ民意に迎合することが正しいと思っているようですが、それは代表制の意味を亡失しているだけに過ぎません。
ただ民意に従順であるならば直接民主制であるべきです。それを実現できないから代表制であると言いますが、民意だけに拘束される代表制であるならば、代表者が代理で選挙区の人民の意見を集める選挙を行うのが筋でしょう。では、そのような選挙に参加する人がどれだけいるでしょうか?
逆に民主主義的な正当性をどれだけ一貫して貫いているのか?という問題も多く問題にされるべきでしょう。
自分に都合の悪い問題では、民主主義的結論を反故にするために別のイデオロギーを持ち出して自論の正当性を主張する。
こういうパターンの人間が多すぎるように思うのです。「あなたのコアなイデオロギーはなんですか?」と質問して、それを常に一貫して守っている人間を私は見たことがありません。(冥王星は三つのコアイデオロギーを大学時代に確立して、ずっと運営しています)
イデオロギーは手段ですから、目的化してはいけませんが、コロコロと都合で使い分けしているような人はどれほど、そのイデオロギーの価値を理解して判断しているのかな?と疑問に感じてしまいます。
文末が愚痴っぽいですが、各人とも論理整合性のある主張ができているのでしょうか?
イデオロギーの都合使い分けに正当性があると思ってる人は、その使い分けの正当性を確立できますか?