今回は集団ヒステリックについて私見を述べます。冥王星個人は集団ヒステリックが嫌いです。
なにより、集団になるとブレーキーが作動しない連中が多いです。
冥王星も群れの一員になることもありますが、決して、集団においてYESマンではありません。天の邪鬼と言われようと集団の流れに迎合しようとはまったく思いません。むしろ、集団の流れに対して懐疑的でいることを立ち位置として確立できているつもりです。
冥王星が大嫌いな
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という思想性をかなり自戒しています。
様々な経験則からこの思想性を時には
、「協調性」として美化する人もいますが、
悪い意味での協調性を正当化しよう
とは理解できません。
日本人は協調性と重んじることに執心しますが、これまで内部告発などが行えない状況は、この悪い意味での協調性の尊重が働いていると思えてなりません。
協調性という言葉の持つ圧力のようなものを感じることは冥王星だけではないと思いますが、過去の全体主義・集団ヒステリックは協調性の名の下に強制された経緯もあるでしょう。
今回の記事は、集団ヒステリックに関する考察ですが、他人事ではありません。
今、自分が集団ヒステリックであるという可能性を考えながら、生きてゆこうと思っています。
近代国家以前の社会契約・自然状態
近現代国家の整備された法制度では、国民の善意・悪意は、国家権力・組織権力という暴力装置によって掣肘・制約されています。
社会契約説で考える自然状態を「国家のない状態」と乱暴に規定することがありますが、近代国家以前の都市国家には「都市の空気は自由にする」という擬似的社会契約があったと考える方が自然と思います。
国家という枠組みに収まっている国民は、国民同士で社会契約を行い国家を形成しますが、
近代国家以前であっても”身分社会””職業社会”のヒエラルキー毎に社会契約が形成され、階層間の社会契約が設けられ社会が秩序だっていたと考えられるでしょう。つまり、小さく狭い社会が形成され、その中で契約が行われたという考えです。
中世社会は封建社会であり、大規模な地方都市であっても20万人を越えないものですから、現代社会で言う国家とは規模が違い
地方分権社会であり、身分社会と並行して地方社会によって、社会は細切れのように細分化され、契約が形成されていたと考えられます。
一方、近代国家が出来上がり、中央集権体制が出来上がる
歴史は短いものであり、
地方分権社会の方が圧倒的に長く平和だったと言えるでしょう。
地方分権社会において地方の支配者階級の私闘・闘争は多々ありますが、それが庶民に致命的な弊害を及ぼすことは多数とは限りません。むしろ、ベースになる庶民の社会不安が支配者層の動向を大きく左右するものと考えられるでしょう。
あくまでも地方分権社会・中央集権社会での混乱の規模・頻度を考えれば、地方分権の方がリスクヘッジできるという話です。
アナーキスト・コミュタリアンの言う社会は前近代的な社会秩序と解することも可能だと思います。(厳密には、自由主義の考えの深遠がありますが)
冥王星から見れば、現代左翼・右翼とも国家主義の度合いの強い思想性でしかありません。自由主義の根本を国家に依存する限りは、国家主義の影響は打破できないのは言うまでもありません。
国民国家が形成されてからの人類の歴史は常に「集団ヒステリック」による惨禍の満ちているように思えてなりません。憲法争論もヒステリックな状況だと見ています。
「集団ヒステリック」を冷静に俯瞰できるようになった人が現代社会の政治をリーダーシップと取っていれば無難なのでしょうが、
世界情勢は、国家を至高のモノとして捉える限りは永遠と不安定なままでしょう。為政者は時には、集団ヒステリックを煽動して政治を行うものであるとも言えるでしょう。
現代社会の混乱因子は宗教・国家という「集団ヒステリック」を誘導する存在が原因と個人的には分析しています。
今回は、「集団ヒステリックと国家」に関して私見を述べさせてもらいます。
フランス革命後の社会ヒステリック
近代国家はフランス革命によって発生しますが、具体的にフランス革命は国家という肖像に関しての問題点を露呈させる
歴史を歩んでいます。
全体主義によるヒステリックな社会情勢というものが国家では簡単に発生します。もちろん近代国家以前でも「集団ヒステリック」な状態は発生しますが、国家成立の方がよりその可能性が高くなるのは、
国民国家の社会契約が国民全体を統制するものであることに原因があるでしょう。
前近代社会では階層毎の社会契約であり、階層間の社会契約は相互不干渉の前提です。しかし、
国民国家になると国民全てが社会契約を形成することになり、大規模な集団ヒステリックになると言えます。
大きな社会が大きな社会契約を形成することによって、その惨禍が巨大化するのが近代国家の集団ヒステリックの傾向です。
全体主義的といえる絶対王政は宗教的権威性によって正当化されるもので、あくまでも身分階層の平準化によって発生した特殊な政治体制が絶対王政です。
(絶対王政は、職人・農民・王権・商人・聖職者のヒラエルキー的な均衡状態で、徴税権力者として唯一、平時から行使できる常備軍を備えていたのが王権であって、一斉蜂起で簡単に王権が覆るのが実情です)
科学技術の進歩・世界の拡大によって社会ヒステリックの弊害は比例的に拡大したという部分もありますが、逆に、科学技術の進歩・世界の拡大を静止する勢力としての集団ヒステリックの状態も想定する必要性があるでしょう。疑似科学の跋扈は見事に集団ヒステリックであり、非科学的思考回路の結実です。
一体化する世界は運命共同体のように自滅するような社会が理想像と断定するのも聊か早計と考えます。そういう意味では、世界経済の相互依存体制の深化も限界を考える必要性があるとも言えます。
国民国家以前の社会ヒステリック
前近代社会において
歴史的な「集団ヒステリック」状態は宗教だけで見られたことは、社会契約の規模の問題と言えると考えます。それは、前近代社会においては宗教以外では社会構成員の全体を統制する契約は形成できず、身分社会・階層社会での社会契約によって大きな経済格差もあり、小さい社会規模がゆえに影響が卑小化したと想定できます。
誤解される傾向にありますが、政争の背後で安寧な人民生活が営まれている時代はかなり多くあります。日本では戦国時代はとても荒れた社会像が描かれますが決して庶民レベルの生活は苦しいものではありません。むしろ、江戸時代の方が生活苦の局面が強かったとも言えます。戦乱の時代は庶民迎合的な政治活動が行われるものです。
明治時代は日本の近代化として華々しい評価ですが、もっとも国民蜂起が起きた混乱の時代であり、「文明開化」の一方で日本の習俗文化の暗黒時代でもあります。もっとも世界的な日本文化の評価が明治時代に行われ「武士道」が曲解された悲劇・喜劇は非常に興味深い話ではあります。歴史の表舞台とそれを支える庶民の社会は別です。それらを分岐して理解しようとしない歴史観が多いことは非常に歴史認識の偏狭さがあると言えますが所詮は考えが浅い人間の歴史として諦観するのが妥当と思います。
欧州社会でも中世封建制度の方が「都市の自由」が尊重されていた時代が長く続きます。なにより文明文化の保管は身分社会の閉鎖性によってできたことです。庶民文化は強いものしか残りえないもので、庶民文化は政治的な淘汰含めて有象無象になって革新的な
歴史を歩むことになるようです。
前近代国家の集団ヒステリックは身分社会・地方社会と細切れになって発生します。従って大規模なヒステリックにならずに済みましたし、その閉鎖性から外に影響することが稀だと考えられます。
ただし、指摘しました宗教に関しては、大きな社会の縛り(社会契約)として悪影響を生んだことは紛れもない事実です。十字軍・魔女狩りなどを反省したバチカンの姿勢に関しては、好意的に受け止めるべきであって、それ以前のバチカン批判は自制することにします。
社会ヒステリックを見る側の歪み
社会ヒステリック状態に対する見方にも歪みが発生しやすいことも注意が必要です。
例えば、「文化大革命」批判は一般社会で流布していますが、「マッカーシズム」に関しては共産主義者・社会学の一部の人でしか研究も行われていませんし、日本ではマッカーシズム批判はほとんど見受けられません。
社会ヒステリックに関しては国家がある程度の正当性を認めるような状況があるようですし、むしろそれを肯定したい人間もいるようです。
国家が国家の都合で社会ヒステリックを誘導しようとするのは、戦間期に見られる顕著な傾向です。「お国のために」という美辞麗句は国家のエゴイズムの発露でしかありませんし、愛国心を煽動しているだけに過ぎません。愛国心がヒステリックではありませんが、思考停止に至らせる手段に貢献しえるでしょう。
よくよく「洗脳」・「マインドコントロール」などの疑似科学的な言動を行う人を多々みますが、それ自体が胡散臭いものであることを見抜けない人間がよく主張することですから滑稽です。
つまり、”洗脳・マインドコントロールがあると思い込ませる罠に嵌っている可能性”を考えないからこそ正当化できてしまう思考というわけです。
「疑う思考訓練」のない人は社会ヒステリックに流され易いのはこのような理論から正当化できるとは思います。
社会を俯瞰することのできない人間は、集団ヒステリックをヒステリック状態と感じることも危惧することもできないわけです。集団ヒステリックを見破る方法は「全てを疑ってかかること」に他なりませんが、そのような思考訓練のできる人は数少ないでしょうし、冥王星には到底無理だと思います。
ただし、疑似科学などに関して、一歩距離をおけるようになることは可能でしょう。”自分と同じような考えを多くの人が持っているから安心”という状況の危険性を意識しない人が多いことは大阪府民を見れば分かることです。むしろ、逆に
マジョリティ(多数派)であることに安住することなく、マイノリティ(少数派)の優れた見解に対する抗弁を行いつつ、マジョリティを正当化しないような思考訓練が必要だと自戒しようと思います。
社会ヒステリックの肯定と歴史修正主義の根源
日本の戦間期というのは、この社会ヒステリック状態だったと考えることは妥当でしょう。国民国家が形成された直後は概ね、このような国家規模でのヒステリック状態が発生すると言えます。
多くの国家が集団ヒステリック状態に関する冷静な歴史考察は行われていません。例えば、フランス革命以後のフランスのナポレオン体制などはその典型例でしょう。ナポレオン戦争ではフランス革命の思想輸出が国内で叫ばれました。しかし、当時の欧州社会は国民国家を形成する機運の一方で、前近代的王権身分社会の社会統制が緩んでいませんでした。そんな中でナポレオンは思想輸出を目指して、欧州社会を混乱に貶めるわけです。
その後、
欧米社会は最終的には、キリスト教の背景にした「文明国家の責務」(野蛮なアジア・アフリカ諸国のキリスト文明国家の恩恵を与えるべきである、という考え)という身勝手な理屈で世界を蹂躙しようとします。これは、当時の国家によって行われた蛮行であり、それを支援した国家・国民の社会ヒステリックを問題提起できるでしょう。この
歴史的経緯に関しては、教科書レベルでの自己批判は行われていませんが、同じ
歴史教師で行う人は多々います。
もっともフランス人でナポレオン戦争を批判する人は多くはないそうです
よくよく東京裁判批判を行う人が「日本は欧米社会の支配とは違う」という抗弁しますがそれに説得力がないことは「八紘一宇」という思想性で説明ができます。なにより「勝者の
歴史」で成り立つ世界の実像を否定することが、己の否定になってしまうことも冷静に自己批判する必要性があるでしょう。
日本の歴史も勝者による政治支配の歴史であって、東京裁判だけ勝者の勝手が許されないという理屈は身勝手であり、論理的整合性がない主張に過ぎないからである。
これと同じような行為を今の
歴史修正主義は行っているとも解釈できるでしょう。
歴史修正主義がヒステリックな行動であっても社会的な認知を受けないのは、時代背景があるからでしょうが・・・・・
挙国一致という愚策を信奉する問題
スイスは”永世中立国”として有名でしたが、国連加盟によって中立国を返上します。
スイスには、国家主義の影響のある国民には理解できない部分が多々あります。主権ですが、スイス人民にはありません。スイスの主権は国家にもなく”カントン”と呼ばれる地方自治体(州)に存在しています。
為政者は人民の中から抽選で選ばれ任期は一年。直接民主制が履行され、スイスという国家規模での政治的決定は憲法と国防・予算くらいのもので徹底した地方分権が図られています。スイスという国の
歴史を遡ればこのような国家になった道理がよく理解できることですが、
スイスという国で一致して全滅しないようにリスクヘッジを図っていると考えます。
地方分権の深化による意思決定の自由化の一方で不偏不党の国是を300年近く維持したと思われます。しかし、スイスは挙国一致して政治行動を行っているにしても、八方美人的と言える部分が多々あります。不撓であるからこそ、スイスの銀行は信用を獲得していることは言うまでもありません。
国を挙げて(挙国)ということは、逆に失敗すれば国全体の崩壊に帰結します。
日本の国家財政の問題でもそうですが、
「赤信号みんなで渡れば怖くない」という大阪府民の理屈で物事を安易に考えることが多々あるようで、「塵も積もれば山となる」という諺を忘れた国民が多々いるようです。国家財政の問題は深刻な状況ですが、目前の経済状況を優先する流れが支配的です。「今食えないと将来もない」というのは事実でしょうが、その抗弁で永遠と先送りにする可能性を危惧してしまう人はいるでしょう。
中央集権社会は大規模効率で考えれば確かに合理的ですが、
リスク回避の考えからすれば、挙国一致は全滅の可能性を残します。リスクマネンジメントからすれば挙国一致という行為は愚策と断定できます。
様々な方策がある中で国として一つの選択肢だけで考えるのが本当に妥当な姿でしょうか?
以前、”中立”の実像は「対立する両者とも支援することである」という提示をしましたが、何もしないという「局外不干渉中立」という方策ならばまだしも、全滅の可能性のある状況を選択し続けるような意見は非常にくだらないと思います。
もっとも、小さい社会である地方ですら監視・監査できない人民である日本人には政治的意識は不要で、官僚体制支配が妥当なような気がします。
文句言うだけで、”自己決定権に対する自己責任”を覚悟していないような政治意見ばかりの世論を見れば、厭世気分にもなるのは仕方ないでしょう。厭世気分だからこそ、日本を離れたくなる気持ちも分からないでもないですけど・・・・
それにしても、挙国一致という行為の危険性に関しては意識しなくなったのは、やはり軽薄な考えと思いますし
、歴史から学べない人間の合理主義至上主義は窮屈です。
国民とは、「国家に飼いならされた犬・下僕」
という持論は中々解消できそうにないです。