スポーツとは何か?
スポーツの定義は不明瞭である。
定義付けに意味がないという意見も当然あろうが、五輪開催の現実を鑑みて考える機会にしてもいいではないだろうか?
スポーツの言語学的な由来は、フランス語の「運ぶ」から起因するようである。
冥王星個人の分析では現代の「スポーツ」の意味は、娯楽性を過分に含んだ
「余暇」
という結論に至る。この「余暇」の言葉の意味には、「気晴らし」の意味が含んでいるものと解してほしい。
スポーツの定義が出来ない状態で論じる前提として最低限のスポーツと解されるものを例示してみる必要があるだろう。
その中で一番公式にスポーツと解されるのが、オリンピック競技であろう。
もちろん、他にもスポーツに類するものはあるだろうが、定義論においてまず否定論が想定されないオリンピックをスポーツとして提示しておく。
中心の論題ハ、スポーツの定義であるが、サブテーマとしてもう一つ設けておきたいのが
スポーツと軍事
という問題である。
論争までに至らないが、スポーツと軍事を関連つける考えがあることに反発心を抱かずにいられないのである。
定義論の完結を見ない状態で議論になることは難しいのだが、概してスポーツと戦争には巨大な隔たりがある
1.ルールの共有化
戦争にはルールがあるはずである。しかし、ルールは共有化できていない。
建前論のレベルの戦時国際法はルールの共有化が図られているはずである。
しかし、現実には、(2で指摘するが)ルール査定する審判が交戦状態では存在しない。(戦後査定担当は後に譲る)
ルールの共有化は大枠で存在しているだけであり解釈の差異でなんとでも誤魔化せる、と言うのが現状である。
そして、その大枠ですら守られない現状であることも注意するべきだろう。
2、審判の存在の有無
戦争では審判になる存在が存在しない上に、ルールの共有化が図られていないことからも審判を下せないのが現実である。
それと同時に、審判の裁定の権限は各国の主権を超越しないのである。
審判がいるとしても、その審判の裁定が意味を為さないという現実が存在してしまう。
審判の存在はスポーツがスポーツにさせる重要因子と考えられる。
そして、審判次第では記録、結果さえも歪むものであることを考えると競技者以上の影響力があることも留意するべきである。
3.相互尊重
スポーツマンシップの精神の構造は複雑多岐である。
しかし、対戦相手へのリスペクトは不要だとしても、相互に立場を尊重する環境がない状態ではスポーツは成立しない。
その相互尊重の前提があり、その前提で公平なルール作りもある。
対戦相手が存在しない個人競技であっても、同じ競技を行う競技者への尊重が存在しなければ競技として成立しずらい。それは前述したルールの共有化、審判という存在が担保することでもある。
競技によっては、仮想敵の存在がスポーツマンとしての進捗に貢献するという側面もある。同じ競技を行う人物との相互関係の構築は戦争には存在しえない結合性である。
4.人道ルールの介在、一般法の支配
スポーツは道徳性を追及される。これは、ドーピング問題は競技の公平性で必要と言われるが、その境界も不明瞭と言わざるを得ない。
選手マナーの部分、人間性の問題でもスポーツ選手は高いものを要求されることがある。スポーツマンシップのあり様の変化で可変的であるというべきかもしれない。
スポーツは一般法の射程を逸脱しない。競技団体の内規も一般法の射程を逸脱できないし、なにより内部規則の自由も規制も一般法が担保になる。
競技団体の影響下にないスポーツマンであって、ルールと競技団体の関連性から競技団体の影響は免れない。
戦争は軍法の射程で処断するものであり一般法の射程を逸脱できるものである。
5、スポーツ競技の正当性を確立する競技組合の存在
競技団体の存在はそのスポーツの方向性を決定する重要な存在になる。競技ルールに対する権限をある程度は保持し、競技団体に加盟する選手の全体量を考えるとその影響力は大きいし、リーダーシップと拘束性の部分を無視できない。
戦争を管理する組織は世界最大のNGO法人の国際赤十字委員会にあるという解釈もあるが、彼らは拘束力を持ちえる存在ではない。
以下のように戦争とスポーツの隔たりは大きい。
しかし、スポーツ競技の発展の一側面として軍事教練が意味する部分は全否定できない。
冥王星の知り限りは、様々なスポーツと思わしき競技のオリジンは「神事」「祭事」であるが、
軍事教練の延長で発展した格闘技、スポーツは介在している。
軍事教練と祭事ではどちらが由来が古いのか?という問題は各人の判断に任せたいが、
前述したとおり、スポーツは「余暇」「気晴らし」という意味で解釈した方が無難である理由は、スポーツの戦争の差異だけではなく
戦争から離れたスポーツの側面が説明できないことが大きい問題なのである。
陸上競技、格闘技、水泳など多くの競技は軍事教練として取り扱われたことは推定できる。
では全てのスポーツ競技が軍事教練でありえるのか?という問題では多くの想定しきれない例外がある。
近代五輪競技として採用された料理、裁縫などの特殊な競技は当然のことであるし、
女子競技の説明がほとんどできないのである。
女性軍人の一般化はせいぜい第一次世界大戦以降であり、総力戦の様相においても女性は男性に混じって教練するような姿は古くからあるわけではない。
ソフトボール・シンクロ・新体操・体操などは女子が由来のスポーツであること軍事との解離性の一面である。
冬季スポーツが軍事教練の延長であるということは相当問題が大きくなるだろう。
「余暇」「気晴らし」という意味のスポーツは、残念ながら軍事教練という訓練のスポーツでは該当しない部分が多い。
しかし、現代スポーツの専業化の一側面の前に、多くのスポーツは大衆化し、軍人ではない人間、軍隊に関連性の少ない人間が行えるようになった。
スポーツの専業化の結果は、スポーツ観戦という大衆娯楽化に帰結し、スポーツが「気晴らし」「余暇」の一つのなったと言えるだろう。
これは、スポーツを行う「余暇」から、スポーツを観戦する「余暇」という本質的な変化があるが
観戦する側のマインドは、競技者と同質化している。
その象徴性とも言えるのが、サッカーや野球の応援の存在である。
スポーツ競技を行う当事者ではないにも関らず、スポーツを一緒に楽しんでいるのである。しかしも、空間、時間を別にして楽しめる。
余暇、気晴らしの側面を全く持たないスポーツが存在するとは到底思えないし、軍事教練の意味よりも包括的にスポーツの意味たりえると思う。
軍事教練で行われるスポーツは訓練であるが、「余暇」側面は皆無ではない。中には、軍人の余暇の過程で発展した競技もあるだろう。
祭事、神事としてのスポーツの由来を軍事教練よりも強固にする因子がある。
それは、交戦状態において祭事・神事を優先する慣習が世界各国に存在していることから考える必要性がある。
古代五輪のオリンピアの祭典の休戦協定、イスラム教徒同士のラマダン休戦、南米のサッカー休戦、日本でも相撲休戦の歴史事例もある。
ここには、戦争状態を留保して、祭事としてスポーツを優先するというスポーツの特殊性を見出せるだろう。
もっとも、スポーツではなく祭事が優先されているだけ、という分析の妥当性もあるが、祭事スポーツは各地にあるのだから祭事とスポーツを歴史的に分離するのは問題があるだろう。
ちなみに、日本の豪族の一部では祭事の年は戦争をしない慣習があることは以外に知られていない。
諏訪大社の御柱祭など何年に一度の祭事の年、季節の戦争禁止という慣習は戦国時代には消滅してしまうものが多いが、武家政権の地域信仰の尊重は無視してはならない良き因習ではないだろうか?
冥王星は平和主義者であるが、仮に平和が存在するならば、このような事例の一時的和平状態以外は「平和」とは思えない。
もっとも、「平和」なぞありえないという平和主義者の平和論の冥王星は価値がないというべきだろう。
最後に提示しておきたいのが、格闘技とスポーツの差異である。
冥王星個人は格闘技は軍事教練、護身術という側面の発展を見たものであると見ている。
スポーツはルールと安全性への留意が図られている。格闘技は、安全性への留意が図られている側面もあるが、その安全性は当人の安全性のみである。同じ競技者への安全性の留意は存在していない。
剣道も柔道も武道と言われるものは、相手を死に至らしめることを辞さない。しかし、武道がスポーツ化して変質していることを考える必要性があるだろう。
スポーツと格闘技の差異は非常に難しい。
エンターテイメントの徹したプロレスは、スポーツでもあり格闘技でありえると規定できるし、スポーツと格闘技は分離するべきではないかもしれない。
あくまでも冥王星個人の見解に過ぎないが、格闘技は軍事教練から派生したものであり、同じルールの相手を想定しないものが格闘技だと思っている。
さて、コメントに沿って応対すると
>陸上競技や格闘技・武道全般です。
冥王星さんと考えが異なるのは、「実際には神事や娯楽の前に、軍事的目的(生存競争目的)の鍛錬等があったのではないか?」という考えに立っております。(冥王星さんとは違って、文献などで考察している訳ではありませんので、馬鹿発言の可能性が極めて高いですが)
格闘技などの軍事教練の延長に派生したスポーツの存在は想定するべきである。
しかし、それではスポーツを包括的に規定できないことが問題になる。
冥王星の持論の「余暇」「気晴らし」という例外のスポーツが存在しえると再考察の必要性がある。
スポーツ観戦という大衆娯楽の帰結を考えるとスポーツの射程も変わりそうで怖いものがある。
>実際にはルール上問題なければ、スポーツマンシップは、勝利を続ける限りにおいては、あまり問われないのが現状です。(その為にルールがどんどん細かくなっていく傾向にもあります)
非常に重要な指摘だと思う。
そこであえて、スポーツマンシップの多様性というものを考えることを勧めたい。
実はスポーツマンシップはその射程が非常に多様なのである。
高校野球を考えると、桐生第一高校の出場が問題になったが、あの問題もスポーツマンシップの射程の問題になりえる。そして、スポーツマンシップが道徳、規範性であるとすれば文化教育側面を持てしまうから難解である。
そして、スポーツマンシップとは、競技者同士でも差異が大きい。
ルールを司る審判の見えない場所でのプレイの問題などは重要なスポーツマンシップである。
正直、「勝つためにはなんでもやる」という精神性をスポーツマンシップではないと断定しきれない。
ドーピングの程度も不明瞭であるし、このスポーツマンシップというのは、教育文化側面を過分に持ち合わせる概念であり、そのスポーツマンシップがルールとしての意味がある。
だからこそ、スポーツが文化教育側面をもってしまうのである。
>少なくとも競技者の本音は、「そんなの関係ねー」だと考えております。あくまでも、普及の為に都合が良いと考えているからこそ、教育・文化側面を強調しているだけに過ぎないと考えております。(特に格闘技や武道)
上記の指摘とおりです。
問題は、スポーツがすでに競技者のものではなく、観衆含めて成立するものになったことがスポーツの変容というべきでしょう。
つまり、観衆向けのスポーツの成立で、ルールが改変され、スポーツの形状が変わったという部分の分析は、重要かつ本質論として逃避してはならないと思います。
>これは不謹慎ではありますが、実際にはスポーツ的な側面は十分にあると思われます。(一方的な殺戮ではない殺し合いですら、楽しめるようになってしまう人間もいますから)
娯楽とスポーツの差異という問題になるので、これも論争するべきだと正直思います。
仮に娯楽=スポーツであればサバゲーも消化実演、火力演習もスポーツになるかもしれません・・・
ここらは回答できるような思考回路をまだ持っていないので、もう少し考えてみたいと思います。
Copyright © 2008 冥王星 All rights reserved.